若紫

現代語訳

日もたいそう長く手持ち無沙汰なので、光の君は夕暮れでたいへん霞がかっているのに紛れて、あの小柴垣のところにお出かけになります。従者はお帰しにならせて、惟光朝臣と一緒に垣間見をなさったところ、ちょうどこの西面の部屋にいたのは、持仏をお据え申し上げて、勤行をしている尼でした。御簾を少し挙げて、花をお供えするようです。部屋の中の柱に寄りかかって、肘掛けの上にお経をおいて、たいへんだるそうにお経を読んでいる尼君は、只者には見えません。四十歳ほどで、とても白く上品にやせていますが、顔つきはふっくらとしていて、目元や、髪がきれいに切りそろえられている毛先、かえって長い髪よりもこの上なくいま風であるものだなぁと、光るの君はしみじみとご覧になります。

さっぱりとして美しい大人が二人ばかり、その他には子どもたちが部屋に出入りして遊んでいます。その中に、十歳ほどであろうと思われる、白い下着に、山吹襲で着慣れている物を着て走って来る女の子がいます。多く見える他の子どもには似るよしもなく、たいそう成長後の姿が想像できていかにも可愛らしい容姿をしています。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔を、手でこすってひどく赤くして立っています。

「どうしたのですか。子どもとけんかをなさったのですか。」

といって尼君が見上げると、少しにているところがあるので、尼君の子どもであろうと光の君はご覧になります。

「雀の子を犬君がのがしてしまったの。籠の中に入れておいたのに。」

といって、とても残念に思っています。この座っている女性が、

「いつもの、不注意者が、こんなことをして叱られるのは、ほんとうにいけませんね。どこへ行ってしまったのでしょう。とても可愛らしく、だんだんなってきましたものを。烏などが見つけたら大変です。」

と言って立って行きます。髪はゆったりとしてとても長くて、感じのいい人のようです。少納言の乳母と人が呼んでいるらしいこの人は、きっとこの子の世話役なのでしょう。


尼君は、

「いやもう、、まぁ幼いことですよ。子どもでいらっしゃるのですね。私が今日明日かと思われる命だというのに、なんともお思いにならないで、雀の後を追いかけていらっしゃることです。雀をとらえることは罪になることだと、いつも申し上げているのに、情けない。」

と、

「こっちにいらっしゃい。」

と言うと、少女はかしこまって座りました。顔つきがたいそうかわいらしく、眉毛のあたりがほんのりと美しく見え、あどけなく髪を払いのけた額の様子、髪の生え具合が、たいそうかわいらしいです。成長して大人になっていく様を見てみたいと思う人だなと光の君は注目されています。というのも、光の君が限りなく恋い慕い申し上げている人に、この少女がたいへん似ていらっしゃるので目がいってしまうのだな、と思うことにも、涙がこぼれ落ちてしまいます。


尼君は、少女の髪をかきなでながら、

「髪をとかすことをお嫌がりになりますが、美しい御髪ですね。たいへん幼くいらっしゃるのが、どうしようもなく先が気がかりです。(あなたぐらいの)年頃になれば、これほど幼稚ではない人もいるのに。亡くなった姫君(少女の母)は、十歳ぐらいで殿(母親の父・少女からみれば祖父)が亡くなられたときには、とても分別がおありになったのですよ。たった今、私があなたを見捨てて(死んで)しまったならば、どうやって世の中を生きていかれるのでしょう。」

といって、たいそう泣いているのを光の君がご覧になるのも、なんということもなく悲しい気がします。少女は幼心にも、やはり尼君のことをじっと見つめて、伏し目になってうつぶしていますが、垂れかかっている髪は、つやつやと美しく見えます。

[尼君が詠んだ歌] これからどのように成長をしていくのかわからないような若草(少女)を、残して消えていく露のような身の私は、(あなたのことが気になって)消えるにも消えることができません。

その尼君と少女の横にいた女性は、

「本当に」

と泣いて、

[横にいた別の女性が詠んだ歌] 生えたばかりの若草の行く末も知らないまま、どうして露(尼君)は消えようとしているのでしょうか。

と申し上げているうちに、僧があちらからやってきて、

「ここは外から丸見えではありませんか。今日に限って部屋の端にいらっしゃったのですね。この上の高い僧の所に、源氏の中将が瘧病のまじないをしにいらっしゃったのを、たった今聞きつけました。たいそうお忍びでいらっしゃったので、知りませんで、ここにおりながら、お見舞いにも参りませんでした。」

とおっしゃると、

「まぁたいへん。とてもみっともない様子を誰かが見てしまったのでしょうか。」

といって簾をおろしてしまいました。

(僧都が言うことには) 「世間で評判になっていらっしゃる光源氏を、このような機会に拝見なさってはいかがでしょうか。世俗を捨てたこの法師の心の中にも、たいへん世間への憂いを忘れて、寿命が延びるような気がする(光源氏の)ご様子でいらっしゃいます。さあ、ご挨拶を申し上げましょう。」

といって席を立つ音がしたので、光の君はお帰りになられました。


しみじみとかわいい人を見たものだなぁ。このようにかわいい人が目に留まるのだから、この好色みの人たちは、このようにしのび歩きばかりして、よくもまぁ意外な人を見つけになるものだなぁ。偶然に出かけてきてさえ、このように思いがけないことを見るものだよと、面白く思います。それにしても、大変美しい子どもであった、どのような人なのだろう、あの人の御代わりに、明け暮れの慰めにあの子を見たいものだ、と思う心が深くなっていきました。