このついで
現代語訳
降る雨を春のものとて眺めさせたまう昼の頃合、台盤所にいる女房たちが、「宰相の中將がお見えになったようです、あの方の立てられる匂いが、たいそう漂ってきますもの」などと言っているうちに、当の中将が現れて、女御の前にかしこまり、「夕べより父君の御殿におりましたが、そのままここへお遣いに参りました。女御様がかつて東の対の紅梅のもとにお埋めになった薫物を、今日の徒然に、お試しなされませとのことです」と言った。見事な枝に、白銀の壺が二つ結わえつけられていたのだった。そこで中納言の君が、それを御帳の内に持参し、香炉をたくさん用意して、若い人たちに、すぐさま試みさせたところ、女御はそれをちらりとご覧になって、御帳の側の御座に横になられた。女御の紅梅の織物の御衣に、豊かな髪の裾が覗き見えていた。中将はその間、これかれそこはかとない話を女房たちとし、忍びやかにその場に控えていたのであった。
中将の君という女房が、「このお香のついでに、ある人が哀れと思いながら語ったことが思いだされました」と言った。すると、年長の宰相の君という女房が、「何事ですか。女御様も退屈されていらっしゃるので、お話し申しあげなさい」と唆すので、中将の君は「それでは、わたしの後にはどなたかお話ください」と言って、次のような話をした。
「ある公達が、ひそかに通ってらっしゃるお方があられたようで、たいそう可愛い御子が生まれましたので、いとしいとは思いながらも、本妻が厳しかったのでしょう、訪ねるのも絶え間がちでした。でも子の方は父親を思いも忘れずにいて、たいそう慕うのが可愛くて、時々は自分の家につれて帰るのでしたが、母親は、すぐ返して下さいとも言いませんでした。長い中断を経てしばらくぶりに訪ねてみると、子は寂しげな様子で、父親を珍しげに思っているようです。父親はその子をかき撫でながら見ていたのですが、ゆっくり出来ぬ事情があって去ろうとしますと、子がいつもの通り父親を慕うさまが可哀そうに思えて、しばらく立ちどまったあと、それでは、と言って子を抱いて去ろうとするのを、母親はたいそう苦しげな様子で見送りました。そして、手前の香炉を手でまさぐりながら、
子でさえもこのように父親を慕って去ってしまっては、私は香炉を一人で焚きながら思い漕がれるばかりです
としのびやかに言ったのでした。それを屏風の影で聞いた父親は、たいそう気の毒に思えたので、子を返して、そのまま一人立ち去ったのでした」この話を聞いた女房たちは、「どんなに辛く思ったことでしょう」とか、「愛情も深まったことでしょう」などと言いあったが、中将の君は、これが誰のことだとも言わずに、ただ笑いに紛らわしてしまったのであった。
「さあ、今度は中納言の君ですよ」と中将がおっしゃるので、中納言の君は、「とんだ話のきっかけを申し上げてしまいましたね。それでは、私は最近のことをお話し申し上げましょう」と言って、次のような話をされた。
「昨年の秋の頃合いに、清水に参籠しておりましたところ、隣に屏風ばかりを頼りなげに立てた局がありまして、そこから趣のある匂いがたち、人の気配も少ない中を、折々泣き声が聞こえてまいりますので、どなたかとお聞きしておりました。明日は下向しようと思っていたその夕方、風がたいそう荒々しく吹き、木の葉がはらはらと、谷に向かって乱れ散り、色濃い紅葉が局の前に隙間なく散り敷く様子を、隣の局との仕切りの屏風の所へ寄って、私も眺めておりましたところ、隣の方はたいそう忍びやかな風情で、次のように歌われました。
この世を厭うわが身はつれないものですが、憂きことを嵐にまぎらわして散っていく木の葉がうらやましいことよ
その方は、風の前の木の葉になりたい、とおっしゃりたかったようでしたが、それにはさすがの私もお返しの歌をさしあげにくく、そのまま聞き過ごしてしまいました」 中納言の君はこうお話しされたのだが、まさかそのままにはすませなかったと思う。もしもその通りだったのなら、残念な遠慮をなさったものである。
「さあ、少将の君の番です」と中将がおっしゃると、少将の君は、「上手にお話申し上げたことなどございませんのに」と言いながら、次のような話を申し上げた。
「叔母にあたる人が東山あたりで修行しておりましたとき、私もしばしご一緒いたしましたが、庵主の尼君のとろこには、たいそう身分の高い人々が沢山おられる気配がいたしました。それを見た私は、その方々が姿を変えて、人目を忍んでらっしゃるのかと思っておりました。皆さん物腰がたいそう気高く、とても凡人とは思えません。どんな方々か知りたくなって、粗末な障子に穴をあけて向う側を覗きましたところ、簾に几帳を添えて、そこに清げなる法師二・三人が座っています。すると、なんとも気高い様子の人が、几帳の脇に添って横になり、この法師たちを近くに呼び寄せ、何か話しかけています。
「何を言っているのか、聞きわけることもできないほどでしかたが、尼になりたい、と言っている様子に見えます。法師はためらっているようでしたが、女性がなおなおと切実に言う様子なので、では、といって髪をおろして差し上げたようです。几帳の綻びより、櫛の箱の蓋に、長さ一尺あまりの、毛筋やすそつきがたいそう美しい髪を、輪にして押し出しました。その傍らに、もう少し若くて、十四・五歳ほどに見える女性が、髪の長さは四五寸あまり、薄色のこまやかなる一襲に掻練の上着を重ねて、顔を袖に押し当てながら、たいそう泣いています。妹なのでしょう、と思われました。
「ほかに若い人たちが二三人ばかり、薄色の裳を引き被っていましたが、どなたもたいそう涙の止まらぬ様子です。世話をしてくれる乳母などがおられないのかと、気の毒に思いましたので、扇の端に小さな文字で、
世をそむく理由もわからず、またそれがどなたと知らないままですが、お話をお聞きして涙が流れるばかりです
と書いて、侍っていた幼い者に持っていかしましたところ、この妹と思えた人が返事を書く様子です。幼い者がその返事を受け取ってきましたので、それを見ると、書きざまも由緒ありげで、素晴らしい字でしたので、私の書いた字のつたなさが恥ずかしくなりました」などと少将の君が話をしているうちに、女御がお渡りになられるご様子なので、それに紛れて少将の君もどこかへ隠れてしまったということでした。