いでや、この世に

現代語訳

さて、この世に生まれたからには、こうありたいと思うはずのことが多いようです。 帝の位をその願いの中に入れることはたいそう恐れ多いものです。皇族の末裔にいたるまで、人間の血筋でないことは尊ぶべきことです。摂政や関白のご様子は言うまでもなく、普通の貴族でも、舎人などの役職をうけたまわっている身分の人は恐れ多いです。その子や孫が落ちぶれていたとしても、依然として優雅です。それよりも(身分が)下の人は、身分に応じて、時代にあわせて栄え、得意顔をするのも、自分ではすばらしいことだと思うようですが、それはとても残念なことです。 法師ほどうらやましくないものはないでしょう。 「人には木の端のようにたいしたことがないものと思われているよ。」 と清少納言が書いていることも、本当にもっともなことです。位が高く勢いがあり、評判になるにつけても、素晴らしいとは思えません。増賀聖が言ったということですが、世間的な名声に執着することは身を苦しめ、仏の教えにも背いていると思えます。一途な世捨て人は、かえって望ましい生活をする人もいるでしょう。 人は容姿が優れていることが、望ましいことでしょう。ものを言うのにつけても、聞きにくいこともなく、愛嬌があって、言葉は多くない人にこそ、飽きることなく向き合っていたいものです。すばらしいと見える人の、幻滅させるような本性が見えることこそ、残念なことです。身分や容姿こそ生まれつきのものですが、心などは、優れているものからさらに優れているものに移そうとして移せないことがありましょうか、いや写せます。容姿や心構えが良い人も、教養がなくなってしまえば、身分が低く、顔つきがいかにも醜い人に入り交じっても、わけもなく圧倒されるのは、残念なことです。 身につけておきたいことは、正式な学問の道、漢詩を作ること、和歌を詠むこと、管弦楽の道、また有職や公事の方面で、人の手本であるようなのがすばらしいことです。文字などは下手ではなくすらすらと書き、声がよくて拍子をとり、酒をすすめられて困った様子はみせるものの、下戸ではない人こそ、男としてはよいものです。