悲報到来

現代語訳

次の年の春に、本当に、資盛があの世の人になってしまったと聞いてしまいました。その時のことは、まして何と言いましょうか、いや言いようががりません。みな前もって思っていたことでしたが、ただ呆然としてしまいました。あまりにもこらえ止められない涙も、一方では、その様子を見る人にもはばかられるので、どうしたのかと人も思っているでしょうが、

「気分が悪い。」

といって、頭から着物をかぶって、終日寝てばかりいて、心の思うままに泣いて過ごしています。どうにかして忘れようと思うのですが、意地が悪いことに資盛の面影が身にまとい、資盛が生前口にした一言一言を聞くような心地がして、この身を責める悲しさを言葉では十分に言い尽くすすべがありません。ただ、限りのある寿命を全うして亡くなったと聞くことでさえ、悲しいと言い思うのに、資盛の死は何を例としましょうか、いや例にするものはありません、と重ね重ね思われて次の歌を詠みました。

一般に、世の中の死のことを悲しいと思うのは、このような悪夢を見ていない人が言ったことでしょうか。

しばらくして、ある人のもとから、

「ところで、今回の悲しさは、どのようなほどでしょうか。」

と言ってきたので、一般的な(慰めの挨拶)ものに思われて、

悲しいとも、また、もの悲しいとも、世の中にあふれた感情で言うことができれば良いのですが。