ある者、子を法師に
現代語訳
ある人が、子どもを法師にして、 「学問をして因果の理を知り、説経をして世の中で生活していく手段としなさい。」 と言ったので、子どもは親の教えのままに説経師になろうと、まず馬の乗り方を習いました。輿・車を持たない身なので、導師として招かれた時に、馬などを迎えによこしたときに、尻が鞍に落ち着かない様子で落馬でもしたら情けないだろうと思ったのです。次に、法事のの後に、酒などをすすめられることがあった時には、法師がまったく芸がないというのは、施主が興ざめと思うであろうと思って、早歌という事を習いました。二つのことが、だんだんと熟練の域に入ったので、いっそう上達したいと思って精を出していたうちに、説経を習う暇がなくて年をとってしまいました。 この法師のみではなく、世間の人は、一般的にこのような事があります。若い時には、何事においても、名をあげて、大きな道で大成し、芸も身につけて、学問をもしようと、将来の行く末を思いめぐらすことを心に抱いています。しかし、人生をのんびりと考えてすっかりと怠けながら、とりあえずさしあたって目の前の事にだけに熱中して年月を送れば、すべてにおいて大成することなく、体は老いてしまいます。しまいには(その分野の)名人にもなることなく、思っていたような出世もしません。後悔しても、取り返せる年齢ではないので、走って坂を下る輪のように衰えていくのです。 それゆえに一生のうち、第一にこうありたいと望むことの中で、どれがまさっているか大切なものなのかと、よく思い比べて、一番重要な事を考えて決めて、その他のことはあきらめて、一つのことに打ち込むべきです。一日のうちにも、一時のうちにも、多くの取り組みたいことがやってくる中で、少しでも有益になるようなことに取り組み、その他のことはあきらめて、重要なことを急いでやるべきです。あれもこれも捨てまいと心にとどめておいては、一つの事もなし得ることができるはずもありません。