忠信、吉野山の合戦の事
現代語訳
山科法眼が申すには、「落人を坊に入れたまま、夜を明かしては恥となる。我らの世であれば、これほどの家など一日に一つずつも造れよう。ただ焼き出して射て」と申しました。
忠信(佐藤忠信)はこれを聞いて、敵に焼かれたと言われては、ここに留まった甲斐もないと思いました。どうせなら自ら自決したと言われたいと思い、屏風に火を付けて、天井に投げ上げました。大衆([僧])はこれを見て、「なんと内から火を付けたぞ。出てくるところを射て」と言って、矢を番い太刀長刀を構えて待ちました。火が消えてから忠信は、広縁([広庇ひろびさし]=[寝殿造りで、庇の外側に一段低く設けた板張りの吹き放し部分])に立って申すには、「大衆どもよ騒ぎ立てずにわたしの話を聞け。わたしを本当の判官殿(源義経)と思っておるのか。君(義経)はすでに落ちられたぞ。わたしは九郎判官殿(義経)では、ないぞ。一門の佐藤四郎兵衛藤原忠信(=佐藤忠信)という者だ。わたしを討ち取ったからと言って、義経殿を討ち取ったと思ってはならぬ。わたしはここで腹を切る。首を持って、鎌倉殿(源頼朝)にお見せすればよい」と申して、刀を抜き、左の脇に刺し貫く振りをして、刀を鞘に戻し、内に飛んで入り、走って内殿([奥の方にある御殿])の引き橋を取って、天井に上って見れば、東の鵄尾([瓦葺きの宮殿や仏殿の 棟の両端に取りつけた装飾])はまだ焼け残っていました。関板([板屋根])を踏み破って、飛び出て見れば、山を削り、懸け造り([傾斜地や段状の敷地,あるいは池などへ張り出して建てること])にした楼([高殿])でしたので、山と僧坊との間はわずか一丈余り(約3m)ほどでした。
これほどの所を飛び損じて、[その善悪に応じて果報を生じるもの]ならば仕方ないこと。八幡大菩薩よ、知見([事物に対する正しい認識])を見せ給へと祈誓して、えいと声を出だして飛び跳ねると、忠信ただのぶ(佐藤忠信)は後ろの山へ仕損じることなく飛び付いて、上の山に登り、松が一叢生えた所で鎧を脱ぎ、敷いて、兜の鉢を枕にして、敵があわてふためく様子を眺めていました。大衆([僧])が申すには、「なんということか。判官殿(源義経)だと思っていたが、佐藤四郎兵衛(忠信)だったとは。まんまと騙された上に多くの者を討たせたとあっては腹の虫が治まらぬ。大将軍ならば首をとり鎌倉殿(源頼朝)のお目にかけようと思っていたのだ。憎い奴め、閉じ込めたまま焼き払ってしまえ」と言いました。
火も消え、炎も鎮まった後に、焼けた首なりとも、御坊(山科やましなの法眼ほふげん)に見せようと、手分けして探しましたが、忠信ただのぶ(佐藤忠信)は自害していなかったので、焼け首があるはずもありませんでした。それでも大衆([僧])は、「やつは剛の中の剛の者だ。死後までも屍に恥を晒すまいと、塵灰となって焼け失せたに違いない」と申して、寺へ帰って行きました。忠信は、その夜は蔵王権現(現奈良県吉野郡吉野町にある金峯山きんぷせん寺の本尊)の御前で夜を明かし、鎧を蔵王権現の御前に脱ぎ置いて、十二月二十一日の曙に御岳(金峰山)を出て、二十三日の暮れほどに、危ない命を助かって、再び都に入りました。