若宮誕生

現代語訳

陰暦十月十日過ぎまでも中宮彰子さまはお休みどころから出なさらなかった。西のそばにある御座所に(私紫式部たちは)お仕え申し上げる。道長殿が夜中も早朝にも若宮の所へ参上なさっては乳母の懐を探しなさるので、乳母が安心して寝ているときなどは寝ぼけて目を覚ますというのも、とても気の毒に思われる。若宮のご様子が安定しないのを道長が満足した様子で抱き上げて可愛がりなさるのももっともだが素晴らしい。あるときは、若宮が滅茶苦茶なこと(お漏らし)をおしかけ申し上げなさるのを、殿は服の紐を解いて、御几帳のうしろで火であぶりなさる。

「ああ、嬉しいことだなあ。この濡れた服をあぶっていると、思いが叶った気分になることだよ。」

と、喜びなさる。

道長は中務の宮のあたりのことを熱心になさって、私紫式部を中務が心を寄せている人だとお思いになってお話しなさるのも、本当は心中で思案にくれることが多い。  天皇が宮中から道長の家へお出ましするのが近くなったと言うことで、道長は邸内をますます手入れなさる。実に美しい菊の根を探しては掘って参上する。色々と色が変わっている菊も、黄色で見所がある菊も、さまざまに植えてある菊も、朝霧の絶え間から見渡した様子は、なるほど老いもきっと取り除けるだろうという心地がするのだが、なぜだろう。まして悩むことが少しでも平凡な人並みであれば、風流めかして待遇し、若やいで振る舞い、無常な世をきっと過ごしていたであろうに。すばらしいこと、興味深いことを見聞きしても、ただ思い詰めた憂愁が引く方だけが強く、憂鬱で、思いどおりにならず、嘆かわしいことが心の中で多いことが、とても苦しい。どうにかして、今はやはり忘れてしまおう、思う意味もないし、執着心も深かったようだ、などと夜が明けてくると物思いに耽りながら水鳥たちが何も思い悩むこともなさげに遊びあっているのを見る。

水鳥を 水の上だからといって 他人事と思えようか。 私も浮いたような憂鬱な 世の中を過ごしているのだ

あの水鳥も、ああやって満足して遊んでいるように見えるが、実はとても苦しいのだろうとなんとなく思われる。