歌ゆゑに命を失ふ事

現代語訳

天徳の御歌合のときに、兼盛と忠見は、ともに随身として左方と右方についていました。初恋という題材を頂いて、忠見は、名歌を詠むことができたと思い、兼盛もどうしてこれほどできのよい歌を詠むことができようか、いやできないと思ったのでした。

恋をしているという私の評判が、早くも広がってしまいました。人に知られないようにと想っていいたのに。

さて、すでに天皇の御前で歌を読み上げて、判定なさっていたときに、兼盛の歌として

包み隠していたけれど、顔色に出てしまいました。私の恋心は、物思いをしているのかと人が問うほどまでに顔色に出てしまっていることです。

歌の優越を判定する人たちは、どちらも名歌でしたので優越をつけかねて、天皇のご意向を伺ったところ、帝は、まず忠見の歌を、二度三度お詠みになられました。次に兼盛の歌を何回も繰り返しお詠みになられたときに、天皇のご意向は左方にあるということで、兼盛が勝ったのでした。

忠身は、つらく思って、ふさぎこんでしまい、食べられない病になってしまいました。病気が重く回復の期待が見込まれない旨を聞いて、兼盛がお見舞いにいったところ、忠身は、

「特別な病気というわけではありません。御歌合のときに、名歌を詠み出せたと思っておりましたが、あなたの、『物思いをしているのかと人が問うほどまでに』という歌に、あぁと思って、驚いたと思ったときから、胸がふさがって、このように重病になったのです。」

と言って、ついには亡くなりました。

物事に深くとらわれる心はよくないですが、歌の道を深く心にかける習慣は、心が動かされるものです。どちらの歌も名歌でしたので、拾遺集に収められているのでしょうか。