泔坏の水

現代語訳

(穏やかに過ごしていた日、ささいなことから言いあらそった末に、私も夫も悪態を吐くようになって、夫は私を恨んで出て行くことになった。夫は建物の端の方にそっと出て、幼い道綱を呼び出して、「私はもうここには来ることはないつもりだ」などと言い残して出て行ってしまったそうで、そのすぐ後に、道綱が私の居場所に這って入って来て、ふつうでない様子で激しく泣く。「これはどうしたことなの、どうしたことなの」と聞いても、返事もせずに泣いているので、間違いなくそうだろう(夫が息子に何かいったためだろう)と推しはかったのだが、(夫が大人気ないことを言った事実が)侍女の耳に入ったらそれも情けないほど嫌なことので、息子に問いただすのをやめて、なんとかなだめたが、その日から五、六日ほどになったのに、夫からの何も言ってこない。いつもとは違って、普通ではない間になったので、

「ああ、気が変になりそう。夫が、もう来ないつもりだといったのも冗談だと思っていたのに。不安定な関係だから、このまま関係が終わってしまうこともきっとあるかもしれない」

と思って、不安な状態で物思いにふけっていたが、夫が出て行った日の朝、夫が使った泔坏(ゆするつき)、水を貯めてある容器)の水が、夫が出て行った日のままにしてあったのだった。その水面に塵が溜まっている。「こうなるまで逢っていないのだ」と驚きあきれて、私たちの関係は絶えてしまったのだなあ、せめて水面にあなたの面影でも見えたら、気持ちを問うこともできるけれど、あなたの泔坏の水は、水垢びっしりで面影も見えない。 などと思っていた他ならぬその日に、夫が姿を見せた。いつものように、平気な風で、うやむやになってしまったよ。 こんなふうに不安さに胸がつぶれそうになる時ばかりがある、ゆったりと安心できたことがない、心細くつらかったことだ。