風姿花伝

現代語訳

七歳

この芸においては、おおよそ七歳を始めとすること。この頃に能の稽古をすれば、必ず、その者が自然に行うことに、その者の身体にあった良さが表れるはずであり、舞や働きをするあいだ、音曲とのかねあいなど、怒りたくなるようなこともあり、つい口にも出してしまいそうになったとしても、そのまま、その者の心の赴くままに演じさせたほうがよい。良いとか悪いとかいうようなことを、そんなに教えたりしてはならない。あまりに強くいさめたりすれば、童わらべはやる気を失って、能を行うこと自体が嫌になってしまいかねず、そうなれば進歩も止まってしまう。

十二、十三歳

この年頃になると、早くも、声が次第に調子に合うようになり、能に対する心構えもできてくるので、いろんな曲を、順序だてて教えると良い。なんといってもこの頃は、姿かたちそのものが童形とうぎょうであるので、何をしても幽玄になる。声も美しく響き渡り、この二つの条件にたすけられれば、悪い所は隠れ良い所はますます花やぐ。だいたいにおいて、兒ちごの申楽においては、あんまり細かな物まねなどをやらせてはいけない。やったところで、場の雰囲気にそぐわないばかりか、能も上達しない。

二十五、二十六歳

この頃になると、その人の一生の芸能のありようが定まり初(はじ)める。つまり稽古も、この時期こそが境目と知って行う必要がある。この頃になれば、声変りなどもすっかり終わって、声も體も、その人なりに定まってくるが、能の道を求める者にとっては、この時期は、二つの果報というべきものが得られる時期だ。それはすなわち声と身なりであって、この二つは、この時分に定まると言って良い。また芸能の観点からも、熟練の始りともいうべき時期であって、そのようなことから、おお新たな上手が現れたぞと、人が目を留めたりもする。   もちろん、名人だなどと人から言われたとしても、ただ単に、しばらくのあいだ限りの当座の花として珍しがられているだけであって、舞台の上で優劣を競う立合勝負などでたまたま勝ったりすれば、まわりの人も贔屓目で見たり、本人も自分が上手であると思い始めたりもするが、これはどう考えてみても、本人にとっては仇(あだ)いがいのなにものでもない。この頃の花は誠(まこと)の花ではなく、若い盛りである演やり手と、観る者との心が織り成す一瞬の、珍しさゆえの花であって、そのあたりのことを、本当の目利きは、ちゃんと見分けなくてはならない。この頃の花こそ、初心の花というべきであるのに、それを、道を極めたと本人が勘違いして、はやくも、申楽とは云々と、知ったかぶりをして的外れなことをまわりに言いふらしたり、まるで名人でもあるかのような振舞をしたりするのは、あさましい事というほかにない。たとえ人が褒め、舞台を共にした名人よりも良かったなどと言われたとしても、これは単に、その場限りの珍しさあっての花と自らが覚(さと)って、ますます物まねの稽古にも励み、さらには、達人たちにいろんなことを細かく聞いて、いっそう稽古を増やして精進するしかない。