旅寝の夢
現代語訳
宇多天皇が御退位あそばして(寛平9年(897年))、翌年の秋、御剃髪(御出家)なされ、高野山や金峰山などの方々の山を御覧になられながら、仏道修行をしていらっしゃった。備前(岡山県)の掾で橘良利という人が、宇多天皇が宮中におられた時は、殿上にお仕えもうしていたが、帝が御出家なさったので、そのまま直ぐ御一緒に、出家してしまった。 宇多法皇が、人にもお知らせにならないで、御幸なされるお供に、良利は必ず遅れずにお仕えした。
「このように(おしのびで)御幸なさる。(何か事故でもあっては大変と)とても悪いことである。」からといって、醍醐天皇は内裏から、 「少将、中将、誰それがお側にお付きしてお仕えしろ」と仰せられ、御使わしさったけれども、法皇はその者どもに会わない樣に御幸された。 和泉(大阪府)の国にお出でになられ、日根(ひね:泉佐野市)という所にいらっしゃる夜があった。法皇がとても心細くお寂しい樣子でいらっしゃることを良利は思って、とても悲しかった。 さて、法皇は、「日根ということを歌によめ」と仰せられたので、この良利大徳が、
故郷の旅寝の夢に見えつるは恨みやすらむ又と訪はねば (故郷の人が旅寝の夢に出てきたのは、私を恨んでいるからだろうか。消息の手紙もだしていないから。旅寝は「たひね」と書くので「ひね」の文字を読み込んでいる)
と詠んだところ、側にいた全員が泣いて、次に歌を詠むことができない樣になってしまった。その良利大徳の法名を寛蓮大徳といって、後々までお側にお仕えした。