紫の上のしのぶ

現代語訳

后の宮(=明石の中宮)は、宮中に参内なさったが、三の宮(匂宮)を、 源氏の寂しさを慰めるために二条院に置いてお行きになった。

匂宮が「ばば(=匂宮の養祖母である紫の上)がおっしゃっていたので。」と言って、 (御法巻で紫上は桜と紅梅を大切にするよう遺言した) (紫上が住んでいた)対の御前の紅梅をとりわけ大切にしていらっしゃるのを、 (源氏は)たいそうかわいいとごらんになっておられる。

二月になると、花の咲く木などが、満開なのも これからなのも、 梢のあたりに美しく霞がただようのに、あの(紫上の)お形見の紅梅で、 鶯がはなやかに鳴き出したので、(源氏は)立って出て御覧になる。

この紅梅を植ゑて見ていた花の主(紫上)も今はない邸に (そんなことも)知らないような様子で来ている鶯だなあ

とくちずさんで歩んでいらっしゃる。

春が深くなっていくにつれて、御前の庭の様子が 昔(紫上の生前)と変わらないのを、(源氏は悲しみに沈んでいるので) 楽しんで見るわけではないが、心が落ち着くこともなく、 何事につけても胸が痛むように思われるので、 およそ別世界のように、鳥の声も聞こえないような奥山に入ってみたいとばかり、 いよいよ思いが強くなっていかれる。 山吹などが心地よさそうに咲き乱れているのも、 そのまま涙で露にぬれるようにばかりごらんになっておられる。

この二条院よりよその花は、一重の桜は散って、 八重の桜が咲く花の盛りは過ぎて、樺桜が開いたけれど、 藤は遅れて色づいてきたりするのを、その遅さ速さなど花の咲く時期を よくわかって、いろいろの花々をすべて植えてお置きになったので、 (花々がおのれの咲く)時期を忘れず(次々と)美しく咲きほこっているのを、

若宮は、「私の桜は咲きましたよ。どうやっていつまでも散らないようにさせよう。 木のまわりに帳(とばり)を立てて、帷子(かたびら、垂れ布)を上げなければ、 風も吹き込めないよね。」と、うまいことを思いついたと思っておっしゃる顔が、 たいそうかわいらしいのを見ても、(源氏は)ほほ笑まれなさる。

(源氏は)「(花を散らさぬよう、大空を)覆うほどの袖が欲しいと歌った人よりは、 たいそういい思い付きをなさいましたね。」などと、この(匂)宮だけを 遊び相手にしてごらんになっている。

「あなたとなれ親しくしますのももうあとわずかの時間ですね。 (私の寿)命というものがまだしばらく続くとしても、(出家してしまえば) お目にかかることはできますまい。」と言って、例によって涙ぐんでおられるので、 (匂宮は)とてもいやだと思いになって、「ばば(なき紫上)のおっしゃったことを、 不吉にもおっしゃるんですね。」と言って、伏し目になって、 御衣の袖を引きまさぐりなどしながら、(涙を)紛らしていらっしゃる。

(源氏は)隅の間の高欄に寄りかかって、御前の庭や御簾の中やを見渡して 物思いにふけっていらっしゃる。女房たちも、紫上のための喪服の色を 変えない者もあり、(またほかの者も)普通の色合いであっても、 綾織りのようなはなやかなものは着ていない。

源氏自身の御直衣も、色は普通の色だが、意識的に目立たないようにして、 無地のを着ていらっしゃる。部屋の調度や飾りなども、 たいそう簡素になって風情がなく、さびしくなんとなく心細げで 暗い雰囲気なので、

今はもう この世にはもうおるまい(出家しよう)として 荒れ果てさせてしまうのか 亡き人が心を残した春の垣根を (荒らし と あらじ が掛詞)

人と悲しみをわかちあうこともなく 悲しく思っていらっしゃる。