道隆の酒好き

現代語訳

この大臣(=藤原道隆)は、東三条の大臣(=藤原兼家)のご長男である。 母君は、女院(=藤原詮子)を生んだ方と同じである。 関白になり、勢いを得てお栄えになって、六年ほどいらっしゃったのだろうか、 疫病が大流行した年にお亡くなりになった。けれど、そのご病気によってではなくて、 お酒が過ぎて体調を悪くなさって亡くなったのである。 男は、酒飲みであることを、ひとつの興趣あることにするが、 度が過ぎてしまうことはたいそう不都合な場合がありますなあ。 (道隆が)賀茂祭の斎院のお帰りの行列を御覧になるといって 小一条の大将(=藤原済時)・閑院の大将(=藤原朝光)と一緒のお牛車で、 紫野にお出かけになった。烏がとまっている形を瓶(=酒を入れる器)に作らせなさって、 その器を面白いものとお思いになって、折があればそれにお酒を入れてお飲みになる。 今日もそれで差し上げる。楽しくもてなしていらっしゃるうちに、 だんだんお酒が過ぎなさってからは、お牛車の後、前の簾をぜんぶ上げて、 三人とも冠を取って髻をあらわにしていらっしゃったのはたいそうみっともなかったよ。 だいたい、この大将たち(=済時・朝光)が道隆邸へ参上なさったとき、 酔わないままでお帰りになることを、道隆はたいそうもの足りなく 残念なことに思っていらっしゃった。済時・朝光が酔って正気を失って、 お召し物も乱れてしまって、牛車を寄せて、人にかつがれて乗りなさるのを、 たいそう面白いこととなさった。

もっとも、この殿(=道隆)は、お酔いの程度のわりには、早くお酒がさめることをなさった。 賀茂詣での日は、下鴨神社の前庭で、三度の素焼きの杯に入ったお酒を きまって差し上げるならわしであるが、その道隆が詣でなさる時には、 禰宜・神主も道隆の酒好きをわかっていて、大きな杯に入った酒を 差し上げたが、ならわしの三度お酒を召しあがることはいうまでもないことで、 七、八度ほどお酒を召しあがって、下鴨神社から上賀茂神社に参詣なさる 道中では、そのままあおむけに、牛車の後ろの方を枕にして、何もわからないほどに お眠りになった。お供の中の筆頭の大納言としては、この御堂(=藤原道長)が いらっしゃったので、道長が前を行く道隆の牛車をご覧になると、夜になったので、 行列のお先払いの者が持つ松明の光に(道隆の牛車の中が)透けて見えるが、 簾ごしに透けて見えるはずの道隆のお姿がいらっしゃらないので、 不審だとお思いになったうちに、上賀茂神社に参り着きなさって、 お牛車の轅を引き下ろしたが、道隆は着いたことをお気づきになることができない。 どのようにしようかと思うが、お先払いの者もお起こし申しあげることができないで、 ただそのままおそばに控えて並んでいるときに、入道殿(=道長)がご自分の牛車から お降りになったが、(道隆を)そのままにしてよいことではないので、道長は 轅の外にいるままで、大きな声で「これこれ。」といってお扇を鳴らしなどなさるけれど、 (道隆は)まったく目をおさましにならないので、道長は近くに寄って、 (道隆の)上の袴の裾を乱暴にひっぱりなさった時に(道隆はようやく)目をおさましになって、 そのような(酔って寝てしまった時の)お心がまえは慣れていらっしゃたtので、 (髪を整える)御櫛・笄を持っていらっしゃったのを、取り出して、身づくろいなどして、 (牛車から)お降りになったが、少しもそのような酔いつぶれた様子がなくて、 美しいご様子でいらっしゃった。そもそも、それほどに酔ってしまったような人は、 普通の人ならその夜は起き上がることができるだろうか。いやできないだろう。 それなのに、この殿(=道隆)の御酒飲みぶりは、見事でいらっしゃった。 そのお酒に執着するお気持ちを、道隆はやはり最期の時までもお忘れに ならなかったのであろうか、道隆がご病気にかかってお亡くなりになった時、 極楽浄土があるとされる西方に道隆の頭を向け申し上げて、 「念仏を唱え申し上げなさいませ。」と、人々が道隆におすすめ申し上げたところ、 「済時・朝光なども、極楽にはいるのだろうか。」と道隆がおっしゃったのは、 しみじみと感じられたことよ。済時・朝光とともに酒を飲みたいといつもお心に 思い続けなさっていたことだから亡くなるときにお二人のことをおっしゃったのであろうか。 あの、地獄の釜のふちに頭をぶつけて、ようやく尊い三宝の御名前を 思い出したとかいう人のようなことであるなあ。