関白は次第のままに
現代語訳
円融天皇の母君である村上天皇の御后(=藤原安子)は、 この大臣(=藤原兼通)の妹でいらっしゃったよ。この后(中宮安子)は、 村上天皇の御代、康保元年四月二十九日にお亡くなりになったのだよ。 この后(=中宮安子)がまだ存命でいらっしゃったときに、この大臣(兼通)は どのようにお思いになったのだろうか、「関白は兄弟の順にご任命ください。」と 妹である中宮安子にお書かせ申し上げて、手に入れなさった御文書を、 お守りのように首にかけて、長年持っていた。 御弟の東三条殿(=藤原兼家)は、冷泉天皇の御代の蔵人頭で、 この殿(=兼通)よりも先に三位になって、中納言にもおなりになったのに、 この殿(=兄の兼通)はわずかに参議程度でいらっしゃったので、兼通は 世の中をつまらないものに思って、宮中にもいつもは参上なさらなかったので、 円融天皇も兼通のことを親しみがもてないとお思いになっていた。
そのようなときに、兼通の兄である一条の摂政(=藤原伊尹)が、天禄三年十月に お亡くなりになったので、兼通はこの関白は兄弟の順にという御文書を 宮中に持って参上なさって、円融天皇に御覧に入れようとお思いになったときに、 天皇は、鬼の間にいらっしゃるところであった。兼通はよい機会だとお思いになったが、 天皇は、兼通が伯父君たちの中で疎遠でいらっしゃる人なので、(兼通を) ちょっと御覧になって奥へお入りになった。兼通は天皇に近づいて、 「申し上げたいことがございます。」と申し上げなさると、天皇が お引き返しになったので、兼通がこの文書を取り出して天皇にさしあげたところ、 天皇が文書を取って御覧になると、紫の薄く上質な和紙の一重ねに、 亡くなった母宮のご筆跡で、「関白を、兄弟の順にご任命ください。 決してお間違いなさるな。」とお書きになっている(文書を)、 (天皇は)御覧になるとすぐに、たいそう心にしみてお思いになったご様子で、 「亡くなった母宮のご筆跡だな。」とおっしゃって、御文書を持って(奥の部屋に) お入りになったと聞きました。それゆえ、こうして(兼通は関白の内諾を得て) 退出なさったと、聞きました。兼通はとても思慮深くお考えになったことで、 そうなるはずの前世からの因縁とは申すものの、円融天皇が親孝行の心が 深くていらっしゃって、母宮の御遺言にそむくまいと思って、兼通を関白に ご任命申し上げなさった(ことは)、たいそうしみじみと感動することである。 そのとき、頼忠(=藤原頼忠)の大臣が、右大臣でいらっしゃったので、 もののすじ道に従うならば、この大臣(頼忠)が(関白を)なさるはずであったのに、 この(中宮安子の)文書によってこのように兼通が関白になったと、聞きました。 東三条殿(=兼通の弟、藤原兼家)もこの堀河殿(=藤原兼通)よりは 身分が上でいらっしゃったので、文書がなければ兼家が関白になったはずで、 兼通はすばらしく安子に文書を書いてもらおうと考えがおよびなさったことだよ。