はいずみ
現代語訳
元の妻は、まだ夜中ではないうちに行き着いた。見ると、とても小さい家である。召使いは、「どうして、このような所にいらっしゃろうとするのですか。」と言って、とても気の毒だと見ていた。元の妻は、「はやく馬を引き連れて帰ってしまいなさい。主人が待ちなさっているでしょう。」と言うと、「主人が『妻はどこに泊まりなさったのか。』などと仰ったら、どう申し上げるのが良いでしょうか。」と言うので、泣く泣く、「このように申し上げなさい。」と言って、
どこに送ったのかと人が尋ねたら
心の晴れることがない涙の川まで(いきました、と)
と言うのを聞いて、召使いも泣く泣く馬に乗って、ほどもなく帰り着いた。
男は目を覚まして見ると、月もだんだん山の端に近くなっていた。妙に遅く帰るものだな、遠い所へ行ったのだと思うにつけても、とてもしみじみと気がかりなので、
住み慣れた宿(=山)を見捨てて行く月の光を惜しむのにかこつけて
住み慣れた家を捨てていく妻を恋しく思うことだな
と言う時に召使いが帰った。
「とても妙だ。どうして遅く帰ったのか。どこへ行ってきたのか。」と尋ねるので、さっきの歌を語ると、男もたいそう悲しくて、自然と泣いてしまった。ここで(=妻が出て行く時に)妻が泣かなかったのは、平気を装っていたのだったと、しみじみとかわいそうだと思ったので、行って是非連れ戻そうと思って、召使いに言うことには、「そうまでひどい所へ行っているだろうとは思わなかった。本当にそのような所では、きっと命もはかなくなるだろう。やはり是非連れ戻そうと思う。」と言うと、召使いは、「道中、奥様は休みもせず泣きなさっていました。」と、また、「もったいないほど美しい奥様のご様子ですのに。」と言うと、男は、「夜が明けないうちに。」と言って、この召使いを供として、とても早く行き着いた。
本当にたいそう小さく荒れ果てている家だ。見るやいなや、男は悲しくて戸を叩くと、この元の妻は、着いた時から、いっそう泣き伏しているところで、「誰々。」と家の者に尋ねさせると、この男の声で、
涙川をどことも知らないで深い瀬を探すように
つらい道をあちこちたどりながらやって来ました
と言うのを、元の妻はたいへん意外に夫に似ている声だなとまで思って、驚きあきれるように思われる。「開けて。」と言うので、あまり思い当たることは無いが、開けて入れたところ、泣き伏しているところに寄り来て、泣く泣く謝罪を言うが、元の妻は、返答さえしないで、泣くことこの上ない。
「全く申し上げようも無い。本当にこのような遠いところとは思わないで、外に出し申し上げた。かえってあなたの御心は、とても薄情で驚きあきれる。全てのことは、落ち着いてゆっくり申し上げよう。夜が明けないうちに。」と言って、しっかり抱いて、馬に乗せて去る。
元の妻はたいそう驚きあきれて、男がどのように思うようになったのであろうか、とあっけにとられて(いる間に)行き着いた。馬から下ろして、二人で横になった。男は、さまざまに言い慰めて、「今からは、決してあちらへ参上しないでおこう。あなたがこのようにお思いだったのだなあ。」と言って、この上なく愛しく思って、家に連れてこようとして新しい女には、「こちらの人が病になったので、時期が悪いでしょう。不都合でしょう。この時をすごして、お迎え申し上げましょう。」と言いやって、もうここばかりにいたので、新しい女の父と母は嘆く。元の妻は、夢のように嬉しいと思った。
この男は、たいそうせっかちな性質で、「つい、ちょっと。」と新しい女の元へ、昼間に入ってくるのを見て侍女が、「突然、殿がいらっしゃっていますよ。」と言うので、女はくつろいで座っていた時で、慌てて、「さあさあ、どちら。」と言って、櫛の箱を取り寄せて、白いものをつけると思ったけれども取り違えて、掃墨が入っている畳紙を取り出して、鏡も持たずに化粧をして、女は、「『そこでしばらく。お入りにならないで下さい。』と言って。」と侍女に言って、夢中になってきしきしいうほど掃墨を顔にこすりつけるうちに、男は、「たいそう早く、私のことを嫌いなさるのだな。」と言って、簾をかきあげて入ったので、女は畳紙を隠して、不十分にたいらにして、口を覆って目もくらむほど優雅に化粧をしたと思って、まだらに指の形に跡をつけて、目がきょろきょろとして瞬きをして座っていた。
男は女を見ると、驚きあきれ、滅多にないと思って、どうしようと恐ろしいので、近くにも寄らないで、「よし、今しばらくしてから参ろう。」と言って、少しの間見るのも気味が悪いので、去る。
女の父母は、男がこのように来たと聞いて、女のところへ来たところ、「すでに帰りなさいました。」と侍女が言うので、たいへん驚きあきれ、「未練のない冷淡な御心だなあ。」と姫君の顔を見ると、たいへん気味が悪くなった。おびえて、父母も倒れてしまった。
娘は、「どうしてこのようにおっしゃるのですか。」と言うと、「その御顔は、どのようになりなさったのか。」とも不父母は全部言い切ることができない。「不思議で、どうしてこのように言うのか。」と言って鏡を見るやいなや、このようであるから、自分もおびえて鏡を投げ捨てて、「どのようになっているのか、どのようになっているのか。」と泣くと、家にいる人も一斉に大騒ぎして、「こちらを殿がお嫌いになってしまいそうなことばかりを、あちらではしているそうですのに、殿がいらっしゃったので、御顔がこのようになってしまったのです。」と言って、陰陽師を呼んで騒ぐうちに、涙が落ちかかっていたところが、いつもの肌になったのを見て、乳母が紙をもんでぬぐうと、いつもの肌になった。
このようであったのに、「姫君が台無しになりなさった。」と言って騒いだと言うのは、重ね重ね滑稽なことであった。