あづさ弓(P41)

現代語訳

昔、一人の男が、片田舎に住んでいた。その男が、宮仕えをしに都へ行くと言って女と別れを惜しんで出かけたままで、三年の間帰って来なかったので、女は男の帰りを待ちあぐねていたところ、たいそう親切に言い寄った別の男に、女は今夜夫婦になりましょうと約束していたちょうどその日に、この都へ行っていた男が帰って来たのだった。帰ってきた男が「この戸を開けてください」と言って戸をたたいたけれど、女はその戸を開けないで、歌を詠んで男にさし出した。三年という長い間、あなたの帰りを待ちわびてそれでもお帰りにならないのでちょうど今夜、ほかの男と結婚することになっているのですよ、といって家の中から男にさし出したので、男は梓弓・ま弓・槻弓と、弓に色々あるように、私たちの間にも色々なことがあったが、長年の間私があなたを愛したように、あなたは新しい夫を大切に愛しなさい、といって立ち去ろうとしたので、女は、あなたが私の心を引いても引かなくても、昔から私の心は一途にあなたに寄り添っていましたのに、といったが男は帰ってしまった。女は、とても悲しくて、男のあとについて追っていったが、追いつくことができないで、清水がわきでている所に倒れ伏してしまった。そしてそこにあった岩に、指の血で書きつけた歌がありました。私がこれほど恋しく思っているのにあなたはともに思ってくださらないで、別れて去ってしまう。その愛しい人を引きとめることができなくて、私の身は今にもすっかり消えて死んでしまいそうです。と書いて、本当にそこで死んでしまったのだった。