わやくの部屋

UNICORN 2 -Lesson 9

The Diving Bell and the Butterfly
潜水鍾と蝶 ( 邦題 『潜水服は蝶の夢を見る』 )

Section 1

カーテン越しの柔らかな明るさが、夜が明けたことを告げる。両足は痛み、頭は1トンもある。何か目には見えない大きな潜水鐘のようなもので、体全体が拘束されている。部屋が暗闇の中からゆっくりと浮かび上がってくる。一つひとつすべての品物に目をやる――愛する家族の写真、子供たちの描いた絵、ポスター、ベッドの上から吊られている点滴のスタンド。ここ6か月ずっと、僕が閉じ込められているベッドだ。

どこにいるんだろうと長く考えてしまったり、かつて知っていた生活が去年の12月8日金曜日に突然、終わりを告げたのを思い起こしたりする必要はまったくない。

その時まで僕は、脳幹なんて言葉は耳にしたこともなかった。脳と脊髄をつなぐとても大切な部分だということを、それ以来、知ることになった。脳血管発作が脳幹を機能停止に追いやったときに、この事実を暴力的に身をもって知らされた。以前は「重篤な脳卒中」として知られており、あっさりと死んでいたものだ。しかし、医療技術が向上したおかげで、今では、ひどい苦しみを長引かせたり、軽くしたりしてくれる。全身がマヒし、患者は自分自身の体の中に閉じ込められてしまい、決して話したり動いたりできない。僕の場合には左のまぶたをまばたきすることが、唯一のコミュニケーションの手段だ。

Section 2

ごく普通の一日。7時に再び、教会の鐘が鳴り始め、15分刻みに時のうつろいを刻みつける。両手が、燃えるように熱いとも氷のように冷たいともわからないまま、痛み続ける。(関節が)固まってしまうのに抗うため、思わず手足を伸ばしてみる。両手両足が、ほんの数ミリしか動かない。それだけで痛む両手両足の硬直を和らげるには十分なときが結構ある。

僕の繭は(以前より)徐々に締め付けがゆるくなり、僕の心は蝶のように羽ばたく。やってみたいことは山ほどある。体はベッドに捕らわれたままだが、それでも思考は時と場所を超え、(蝶のように)自由に飛び去っていく。スペインにお城を建てられるし、ギリシャ神話の黄金の羊の毛皮を盗めるし、伝説の島アトランティスを発見できるし、子供の頃の夢や大人の野望を叶えられる。

グダグダしたことを書くのはもうたくさんだ。今や僕の任務と言えば、こうした寝たっきりの(2次元)旅行記の冒頭の部分を書き上げることだ。出版社から使いの人がやって来て、一文字一文字、僕が言ったことを書き留めるときに、準備ができているようにするためだ。頭の中で、どの文も10回は練り上げ、推敲し、段落ごとに文章を暗記する。

どのようにして単語をどんどんとつむぎ出し続け、文を、そして、段落を作り上げていくのか、少し話させてください。僕のアルファベットの秘密を話させてください。

Section 3

僕はアルファベットの文字が好きだ。夜、生きているものの唯一のシルシがテレビの画面の真ん中の小さな赤い点だけのとき(→夜、命あるものと言ったら、ただテレビの画面の真ん中に出てくる小さな赤い点だけになるとき→夜、生あるものがテレビのスイッチについているLEDの丸い小さな赤い明かりだけになると)、母音と子音はシャルル・トレネの歌に合わせてダンスする。「親愛なるヴェニス、甘いヴェニス、いつだって君のことを覚えている……(→ヴェニスよ、美しき都よ、忘れられぬ甘き思い出……)」 お手てつないで、アルファベットが病室を横切り、ベッドの周りを飛び交い、窓辺をさっと通り過ぎ、もう一度、最初に戻ってくるみたいだ。

ESARINTULOMDPCFBVHGJQZYXKW

僕のコーラスラインの(=アルファベットの)でたらめな現れ方は、偶然ではなくずる賢い計算に基づいている。ただのアルファベットなんかじゃなくて、ヒットパレードだ。どの文字もフランス語における使用の頻度に従って(→フランス語の使用頻度順に)配置されている。そんなわけで、Eが先頭で誇らしげに踊っている一方で、Wは最後尾にしがみつくのに満足している(→Wは満足して、どん尻に控えている)。BはVのすぐ隣に押し戻されてくやしがっているし、高慢ちきなJはこの集団のかなり後ろに近いところに自分がいるのを見つけてびっくりしている。だって、フランス語ではあんなにもたくさんの文がJで始まっているのに(訳者注:フランス語の「私」は je ですから、当然、Jで始まる文が多くなるはずなのですが……かわいそうなJちゃん)。tu (君)という優しい組み合わせを作る部品のTとUは、ここでも離れ離れにならないでいられて喜んでいる。このように順番をすっかり変えているのには、目的がある。僕とのコミュニケーションを望んでいる人にとって、よりたやすくできるようにするためだ。

Section 4

このシステムはとても簡単だ。目のまばたきを使って、僕が指示したい文字のところで君を止めるまで、君はアルファベット(ただし、ABCのではなく、ESA版のアルファベット)を声に出して読んでくれればいい。あとに続く文字に対しても、このやり方が繰り返される。結構、早く1つの単語全体を作れるように、そして、それから多かれ少なかれ理解できる文の断片を作れるようにするためだ。でも、本当は、訪問客によっては上手・下手がある。神経質だったり、短気だったり、鈍感だったりして、コードを使う出来栄えは異なっている(僕の考えを記録するこの方法を、僕たちはコードと呼んだんだ)。クロスワードのファンは、幸先のいいスタートを切る。女の子は男の子よりうまく切り抜ける。練習を積めば、コードを覚えちゃって、特別なノートと首っ引きにならないで済む人もいる。特別なノートというのは、例のアルファベットの順番が書いてあり、僕の言葉全部をデルフォイのご神託よろしく書き留めてあるノートのことだ。

実は、西暦3000年の文化人類学者たちがこのノートのページをめくって見る機会があれば、どんな理論を構築するんだろうって不思議になるんだ。わけのわからない単語で書き散らかされた「あの理学療法士、妊娠中」とか、「フランスチームが最低のプレーをした」のような、でたらめに走り書きされた言葉を、文化人類学者は見つけることだろう。

Section 5

神経質な訪問客は(→お見舞いに来てくれる人の中でも神経質な人は)一番早く、嘆くようになる。とても速いスピードで僕の言うアルファベットを表にする。意味も考えずに、ほとんどあてずっぽうに書いていく。それから意味のない結果を見て、叫ぶ。「何てバカなんだ、俺は!」って。でも、最終的なチェックをする段階で、このタイプの人は、あれこれ悩んで僕に休むチャンスを与えてくれる。というのは、問いかけも答えも両方自分でこしらえて、会話全体に責任を負ってくれるからだ。

物静かな人は、もっとずっと難しい。(僕が何度もまばたきをして、やっとの思いで)「お元気ですか?」と聞いたら、「元気です」とすぐに答えて、僕のコートにボールを打ち返してくる。焦らないようにするためには、あらかじめ質問を2つ3つ用意しておく必要がある。細かいことにこだわる人は、注意深く一つひとつの文字を書き留めるだけで、1つの単語を君に代わって終わらせるという夢を決して見たりはしない(→勝手に推理して単語を完成したりは絶対にしない)。“mush”の後に続く“room”を勝手にくっつけたり( mushroom で「キノコ」になります)、“nable”がなければ“intermi”も“abomi”も存在しえないような“nable”を自分の責任で勝手にくっつけたりはしない( interminable と abominable は、それぞれ「飽き飽きするほど長い」と、「実に不愉快な」という意味になります)。このように慎重なせいで、作業は遅々として進まない。でも、少なくとも、一時の感情に走るタイプの訪問客が、直感を確認しない時に足止めを食らう誤解を避けることはできる(→少なくとも、ひらめき型の人が、その自分勝手なひらめきを確認しないで訳がわからなくなって、立ち往生するような誤解は起こらない)。しかし、ある日、このような心理戦(のようなやり取り)にも詩情があることがわかった。メガネ( lunettes )を取ってと頼もうとしたら、こう聞き返された。
「お月さん( lune )をどうなさるおつもり?」