わやくの部屋

UNICORN 2 -Lesson 2

The Problem We All Live With
  共有すべき問題

Section 1

6歳の時、公民権運動が我が家のドアをノックしながらやって来ました。1960年のことでした。歴史が渦を巻く風の中に私を巻き込んだのです。ある朝、連邦保安官がやって来て、家の玄関の外に立ちました。

 その朝は近所の人たちも我が家にいて、母が私の支度をするのを手伝っていました。私は白い服を着ていました。その日、私を見なかった人でもその白い服を覚えている(→覚えていてくださる)かもしれません。その服はノーマン・ロックウェルの絵にあります(→描かれている服です)。絵の中では、私は永遠に白い服を着た6歳の女の子なのです。

 私たちは保安官と新しい学校に車で行きました。行儀よくするようにと言われました。学校に着くまでには、外にたくさんの人だかりがありました。保安官の1人が私の手をつかんで、急いで中に入るようせきたてました。建物の中では、校長室にまっすぐに連れて行かれました。

 そこ(校長室)でやったことと言えば、他の子供たちが学校から帰って行くのを見たことだけです。この新しい学校はなんて(生徒に対して)寛大な(甘い)んでしょうと本当に思いました。私がウイリアム・フランツ小学校(南部で(白人と黒人が一緒に通う)人種差別を廃止する学校の最初の1校になった小学校で、ニューオリンズにある)に通う最初の黒人生徒(児童)になったのはその日だったのです。

Section 2

外にいる群衆のほとんどは他の生徒の親たちでした。いくつかの学校がその日に人種差別撤廃される予定になっているのは、親はみんな知っていましたが、どの学校になるのかは知りませんでした。もし自分たちの学校が選ばれていた場合には、授業から子供をつれ戻す準備をしながら、(学校の外で)立って待っ(→待ち構え)ていたのです。

次の日には、群衆は前日の2倍近くのの大きさになっていました。誰もがみんな(昨日より)もっと興奮しているようでした。悲鳴や叫び声をあげたり、憎むべき(ことが書いてある)プラカードを持っていたりしました。保安官は再び(前日と同じように)私を中に急ぐようにせかして、「まっすぐ前に歩くんだよ。振り返っちゃだめだよ」と言いました。

建物の中は(外とは)違っていました――とっても静かでした。学校は空っぽだったのです。その時、一人の女の人が歩いて近寄ってきました。「こんにちは、私の名前はヘンリーよ。あなたの先生です。」と言いました。先生は白人でした。その日まで、白人の先生に出会ったことは一度もありませんでした。先生は外の人たちと同じように見える(→同じ肌の色はしている)けれど、群衆とは全然違っていました。

先生と私はただの勉強よりももっと多くのことをしました。ゲームをしたり、図工(の実習)をしたり(→図工で何かを作ったり)、音楽を習ったり。丸1年間は(先生と)2人っきりでした。その年、バーバラ・ヘンリー先生からたくさんのことを学びました。でも、一番大切な教えはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが私たちに教えようとしたことでした。肌の色で人を判断してはいけないということです。

Section 3

家庭では学校で私が経験したことはデリケートな話題でした。母は、私に学校の人種差別を撤廃する最初の生徒(のうち)の一人になってほしいと思っていましたが、父はその考えに反対でした。このことで家庭内にはたくさんの問題が起きていましたから、私たちはこの話題を避けたのです。

ロックウェルの絵を初めて見た時、18歳くらいでした。絵を見た時に、起こったことの重要性とその理由の重要性をはっきりと理解しました。しかし、何十年も後になって初めて(訳者注:本文は50年後に当時を振り返って語ったスピーチがもとになっています)、小1の時の1年間が私の人生全体のどのくらい多くを形作っているのかを十分に理解しました。

一番下の弟は1993年に死にました。私は弟の女の子供たちの面倒を見始めました。彼女たちはたまたまウイリアム・フランツ小学校の生徒でした。ある大きな理由のため自分の過去とつながりを再び持つようになったと感じました。

それから間もなく、『ルビー・ブリッジの物語』という題名の子供向けの本が出版されました。人々はロックウェルの絵の中にいる小さな女の子を思い出し、もっとその子について知りたいと思いました。それ以来、私は旅をして回り、自分の話を語り、公民権運動がどのように教えられているのかを見てきています。

ロックウェル『共有すべき問題』1964年制作
『ルビー・ブリッジの物語』1995年刊行

Section 4

ロックウェルの絵の題名の『共有すべき問題』は、まだ今日の課題の1つです。実際に、連邦保安官が守ってくれる中、私が人種差別を撤廃したウイリアム・フランツ小学校は経済や人口動向によって人種差別が廃止されていない学校へとゆっくりと戻って行きました。しかし、今度は生徒のほとんどが黒人でした。(訳者注:小学校のある地域から裕福な白人層が出て行き、貧しい黒人世帯が流入、増加したため、生徒の構成が白人から黒人中心へと変化してしまっている。)

不幸なことに、2005年には、フランツ小学校の大部分がハリケーン(カトリーナ)によって破壊されました。今の私の夢は教育における人種差別撤廃と平等を象徴するこの同じ場所に新しい学校を建てることです。人種差別廃止に向けて経験してきた過程は黒人対白人の戦いとして教えられるべきではないと信じています。公民権を要求し戦っているすべての人種には中心人物がいました。何が起きたのかを十分に知ることによってのみ前に向かって本当に歩み出せるのです。それが新しい学校を作る意欲を起こさせてくれる動機の1部です。

2011年にロックウェルの絵に再会しました。ホワイトハウスでのことでした。オバマ大統領は私のそばに立ちながら、「もし、あなた方がいらっしゃらなかったなら〈過去の事実に反する内容〉、私は(今)ここには(ホワイトハウスに大統領として)いなかったかもしれませんし、ご一緒にこの絵を見ることもなかったかもしれませんと言えるだろうと思います」とおっしゃいました。