わやくの部屋

UNICORN 2 -Lesson 1

Through the Eyes of Imagination
想像力の眼を通して

Section 1

古いことわざにも言うように、「百聞は一見に如かず」です。そうです、このことわざは正しいのですが、しかし、物を見ることに関してはいくつかの方法があるということを私たちはよく忘れます(→ということは忘れられがちです)。言いかえると、物を見るために選び取る「時や距離や角度」次第で、私たちはその物を違ったように見ます(→その物は違って見えるのです)。

 ある場所の慣れ親しんだ昼間の光景が、夜、行くとまったく変わっている(→違って見える)こともあるでしょう。小高い丘は、遠くから見ると、なだらかに(上っているように)見えても、実際に登り始めるととても急だということが分かることもよくあります。正面から見たときには何ら意味をなさない奇妙な絵を描く画家もいました。こうした奇妙な絵はある一定の決まった角度から見たときだけ、はっきりとした像を結びます。

 実際は、私たちは興味深い視覚の錯覚を生みだす例をかなり多く知っています(→実は、面白い視覚の錯覚を生みだす例はかなりたくさん知られています)。時には「双安定」イメージと呼ばれるものを見てみましょう。「双安定」イメージとは見る人に2通りの方法でそれを見ることを許す(→見る人が2通りの見方をとれる)画像のことです。

Section 2

一番有名な例の(うちの)1つ、ルビンのツボには説明はいらないでしょう。図と地の部分は認識の中では(→知覚する時には)交換可能です。しかし、面白いことに、前もって(→ルビンのツボを見る前に)、顔を描いた他の簡単な絵を見せられた人は、ルビンのツボに顔を見つける可能性が高いということが知られています。

 ヴェネチアの仮面の絵はどうでしょうか? 顔がいくつ見えますか? 1つだけですか? もっと注意深く見てください、そうすれば2つの別々の顔が見えてくるでしょう――男の人と女の人が(お互いに)キスしています。最初1つの顔を認識することしかできない(→1つの顔が見えるだけな)のは、おそらくは、1つの仮面は1つの顔と調和する(→対応する・一致する)と普通、私たちは信じている(→信じられている)からなのでしょう。

 ところが実際は、こうした共通の考え(→みんなが同じように信じていること)は、とりわけ様々な心理的、文化的要素によって影響され(→様々な心理的、文化的要素の影響を受け)ます。こうした影響から逃れることは決してできません。さらに、こうした場合に大切なことは、どちらの見方が正しいのか言えない(→わからない)ということです。実際、両方とも正しいのです。しかし、同時に2つの見方はできません。1つの見方をしていると、もう1つの見方はどこかへ消えてしまいますし、逆もまた同様です。2つの見方は相互に覆い隠し合っているのです。

Section 3

困ったことに、最初の受け止め方がその対象物に関してすべてを語っていると思い込んでしまいがちなのです。しかし、先に述べた例が示すように、この思い込みは必ずしも正しいわけではありません。いろんな要素がモノの見方に影響を与えているということに気付き、それにとってかわる他の可能性のある見方があるのかどうかと自問すべきなのです。そうするためには、想像力を十分に働かせなければいけません。

想像力を使うのがとても簡単な場合もあります。サモトラケのニケとして知られている像を見ていると、ニケが顔に浮かべていたかもしれない表情を自由に想像できます。勝利の女神として、勝利の喜びを表現していたに違いありません。にもかかわらず、彼女の喜びにあふれる様子には悲しみのしるしがいくつもあったと想像することも可能です。

何かがそこにないおかげで、その欠落部分を埋めようとして想像力を働かせるのです。いくつかの見方をすることが十分に許されています(→何通りかの見方ができる余地が十分あります)。そして、この彫像について一般に受け入れられている説明と一致しない見方もあるかもしれません。

Section 4

しかしながら、想像力を働かせるのはいつも簡単というわけではありません。対象物に明白な欠落部分がない場合には、想像力は活動を停止し眠ってしまいがちです。クリスマスのテレビ番組を例にとってみましょう。サンタクロースが雪の中を移動している様子を映し出すと、思わず、その番組はクリスマス全体の雰囲気をとらえていると感じます。

しかし、夏にクリスマスを祝う地域が世界中にはたくさんあります。そうした場所では、サンタクロースがサーフボードに乗ってやって来ているのを目にするかもしれません。ホワイトクリスマスという見方は地域的なものであり、不完全なのです。ホワイトクリスマスという見方はその美しいイメージの下にクリスマスに対する(伝統的な見方とは)違う見方の可能性を覆い隠しているのです。

言うまでもなく、人は全能ではないのですから、見方が偏ってしまうのは当然です。自分のモノの見方は制約を受けていて、何らかの欠落を含んでいる(→何かが抜け落ちている→完全ではない)ということを心にとどめておくべきです。確かに「百聞は一見に如かず=見ることは信じること」です。しかし、見ることを時として疑うことも必要です。一番大切なことは、想像力の目を通して普通だと見えないものを見ようと努力すべきだということです。