わやくの部屋

UNICORN 1 -Lesson 10

Words and You
言葉と君

Section 1

1人の高校1年生が、何かに少し心配しています。普段だったら心配事について友達と話をするのですが、今回は未来の自分に宛てて手紙を書いています。

この前の4月にクラスの友達に初めて会ってから、時間が飛ぶように過ぎてます。最初はみんな知らない人ばっかで、話しかけるときにはとても気を使ってました。臆病すぎるって思うかな? ひょっとすると君(=未来の私)が正しいかも。でもね、空いている電車のことを考えてみてよ。あなたは知らない人のお隣にわざわざ座ったりはなさらないでしょ? あるいは、知らない人がやって来て、君の隣に座ったら、ちょっと怖い気がするんじゃないのかなぁ。ちょっと誇張しすぎなのはわかってるけど、正直なところ、誰とでも最初に会う時には、いつだってドジっちゃうんです。ちょっと内気だったかもしんないけど、運がいいことに、入学以来クラスメートの何人かとお友達になってます。

不思議なことに、どうやって友達に今の友達を選んだのか、あまり覚えてないんです。ひょっとして予期しないとこで偶然の出会いで結びつけられたのかも。でも、出会いのことを考えてみると、同じように他の人たちとも偶然の出会いは、いっぱいあったはずです。親しい知りあい(=親しい友達)について言えるのは、何かの理由で初めっからお互いに仲良くやってたってことです。

Section 2

少なくとも理由の1部は、スッゴク明らかです。いろんなことに対する友達の考え方や感じ方が面白いなぁって思ったんです。もちろん、他の人がどう考え、どう感じているかなんて簡単にはわかんない。言葉を交わしてこそ、それ(=他の人の考え方、感じ方)に近づけるんです。こうした会話は、ほとんどいつだってぎこちない方法で(→ぎこちなく)始まります。ひょっとして「文は人なり」という格言が、ここではあてはまっているのかも。そうしたぎこちない会話でも気に入ったり、気に入らなかったりする何かを感知しているんです。これが友達を見つけるやり方(→こうして友達を見つけるん)だと考えてます。

でも、私たちの友情にも問題がなかったわけではないと告白しないといけません。1度や2度は、期待していたものとは違ってると後になってわかる(→こんな感じの人だと思ってたのとは違ってたってわかる)友達も何人かいたんです。裏切られた気がして、ひどく悲しくなっちゃった。心の中で思いました。「そんなこと言える人じゃないって思ってた。うちらってホントに友達なの? 私が喜ばせようとしてやりすぎっちゃってるのか、あるいは、その子ってホントはちっとも気にしないでただ調子合わせてただけ?」 また、友達をうまくわかってあげてなかったのかどうか、逆はどうなのかって思っちゃいます。

Section 3

今日、テニス部の友達と喧嘩しちゃった。相手の男の子が冗談で言ったことを悪意のある発言だって受け止めちゃったからなんだ。私の方の誤解だって、すぐにわかったんだけど、でも、その時はもうすっごくイラッときて「ごめんなさい、私が間違ってたわ!」なんて言えなかったの。

これには今でもまだ落ち込んでるんだよ。でも、どーやってその子と仲直りできるの? 直接、謝るのってなんかハズイじゃん。ケータイでメール送るのっていい考えなのかな? でも、メールで私の誠意ってその子に伝わるの? 言葉で感情を伝えるのって難しい。面と向かって言葉が交わされてるときには、使ってるイントネーションとか顔の表情とかの手助けがあって、コミュニケーション取るのって(メールより)簡単だって思えるんだ。メールの言葉がいつもいつも感情を正しく表現できるってわけじゃない。何気ない言葉で自分から友達を傷つけっちゃってるかもしれないって思うんだ。

明日は部活、楽しめないって思うんだ。言葉って一度言っちゃったら、簡単には取り消せないってほんとにホントよね。何年かすれば、こんな間違いから抜け出せる(→卒業できる)のかなぁ?

今、この女の子は図書館でたまたま見かけた本を読んでいます。その本は人生への洞察に満ちているように思えました。

Section 4

なぜ私たちは文学を読むのかについて、ここで私は少し述べてみたい。もちろん、このことを簡単な言葉で説明するのは不可能だ。文学なんて必要ないって言う輩(やから)もいる。詩を読んだり、小説を読むのは時間の無駄だって言う御仁(ごじん)もいる。ひょっとして脇目をふらずにある(目的の)場所にまっすぐに歩いていく人には、文学は必要ないのかも知れない。彼らははっきりとした視界を保っており、(そこでは)ゴールとゴールに至る道を決して見失わない(からだ)。

こうした人たちは、このはっきりとした視界に完全に満足しているのかも知れない。しかし、私たちのほとんどは道をはずれ、ゴールを見失っている、と私は信じている。人生は、私たちの予想を裏切り、視界をぼやけさせる場合が結構ある。歩くのをやめさせたり、ひょっとすると文学を読むように仕向けるかもしれない。

文学は、多くの階層の意味を含む表現に満ちている。なぜなら、人生とは曖昧なものだと、文学は知っているからだ。「わずかばかりの誠実さは危険であり、度を越した誠実さは致命的である」という言葉を読むと、慰められるだろうか、それとも腹立たしくなるだろうか? こうした表現のおかげで、言葉は単純な意味を運ぶものではなく、友人の間でさえも誤解を生じかねない多くの含みを伝えるものだということを、私たちは思い出す。

Section 5

文学は、いろんな役を演じる様々な登場人物を提供してくれる。現実の人物とは程遠い登場人物だと思うこともあるし、その一方で、時として自分と瓜二つの人物を見つけることもあるかも知れない。こうした登場人物たちが、実際の人生では経験しそうにない様々な経験をしていく。

物語のヒロインが、「尼寺へ行け!」と言われて、ボーイフレンドを誤解することにしてみよう。ヒロインはこの後、彼に対して悪い感情を抱いてしまった。しかし、10年後、単なる偶然から(→ひょんなことから)、彼が本当に意味していたことを悟るようになった。彼は彼女を自分から遠ざけておきたかったのだ。なぜなら、彼女をとてもやっかいなことに巻き込みかねない危険な行為を企てていたからだ。彼女はこのことがわかって、今では、嬉しく思うし(→嬉しく思う反面)、失った年月を残念にも思う。もちろん、彼女の経験は私たちの経験ではないが、私たちはこの経験を分かち合える。彼女の内なる複雑な感情とこの感情を言い表す豊かな言葉は、ともに私たちの心の奥深くに入っていく。ひょっとして、彼女の経験から自分自身の悪い感情をコントロールすることを学ぶこともできるかもしれない。

文学は経験を広めるチャンスを与えてくれる。そして、広められた経験は他者に対してもっと共感を覚えられるようにしてくれるに違いない。