わやくの部屋

POLESTAR 1 -Lesson 7

The Man Who Made the Map of Japan
日本地図を作った男

都市や川や山を見つけたいときには地図を見ます。しかし、誰が地図を作るのでしょうか? この課では、日本地図の初期の製作者について読んでいきます。

Section 1

伊能忠敬(1745―1818)江戸時代の地理測量技師でした。日本全体の一そろいの地図を作ろうとした最初の日本人でした。伊能の地図、大日本沿海輿地全図は「伊能図」とも呼ばれます。伊能図を作るために、伊能は日本全国を測量しなければいけませんでした。17年の期間にわたり、ほぼ44,000kmを旅しました。この距離は地球の周りの距離より長いのです!

伊能の地図は今日の基準から見ても正確でした。海外から日本にやって来た人たちは地図を見て驚きました。しかし、覚えておかなければいけないことは伊能は現代の科学技術を使わないで測量を行ったということです。19世紀には測量用の電子機器は一切ありませんでした。伊能は方位磁石や巻尺のような簡便な道具を使いました。また、伊能はいつも決まったペースで歩くように訓練しました。一定の速さで歩けたおかげで、海岸のような(測量の)難しい場所での距離の測定が可能になりました。

Section 2

伊能は今の千葉県で生まれました。しかし、環境には恵まれていませんでした。まだ小さい頃、母親を亡くし、父親はなかなか仕事を見つけられませんでした。伊能には読み書きそろばんのような基本的な科目を勉強する機会はほとんどありませんでした。12歳になって初めて算数をまともに勉強し始めました。

18歳の時、伊能家の婿養子になりました。人生の転機になるのがこの出来事でした。伊能家はその地域の名家でした。酒造と米の取引を家業としていました。伊能は家業を手伝い、次第に大きな商業的な成功をもたらしました。村長になって、地位の象徴として帯刀を許されました。

家と村のために熱心に働きましたが、伊能は学びたいという願望を失ったことは一度もありませんでした。時間があれば、中国の古典や高等算術や天文学を勉強しました。

Section 3

1795年、伊能は家業の経営を息子の伊能景敬に引き渡しました。その次に行ったことは周囲の人を驚かせました。50歳で、生涯続いた夢を追い求めて江戸に出たのです。徳川将軍家の天文学者高橋至時の下で勉強することにしました。伊能は高橋より19歳年上でした。伊能はすでにカレンダー作成と天文学を自分で少し学んでいました。しかし、まだまだ学ぶことがたくさんありました。高橋や他の学者たちは「新しい」科学と西洋の方式を長年かけて学んでいました。伊能はこうした知識を学び取るのにとても熱心でした。

伊能はとても意欲的で有能な研究家でした。また、伊能は他のほとんどの研究家が持ち合わせていないものを持っていました。お金です。成功した実業家として、たくさんのお金を蓄えるのに成功していたのです。このおかげで高価な書物や測量器具を買えたのです。高橋の下で、伊能は素晴らしい成長を遂げ、5年で研究を修了しました。<

Section 4

この当時、徳川幕府は日本の北部を探査したいと思っていました。伊能は北部全域を測量する計画を提出しました。測量にかかる費用を自分で出すと提案しました。幕府は伊能の計画に同意しました。

1800年6月、伊能は弟子たちと測量器具を持って北部に向け江戸を出発しました。これが北部地域を測量する数多くの旅の始まりでした。土地を測量し、地図を描くという作業を4年にわたり続けました。ついに1804年に、日本の北部の地図を幕府に提出できました。幕府の役人は地図の細かさに驚きました。日本の他のすべての地域の地図を伊能に作るよう依頼することに決めました。

伊能はこの任務を喜んで引き受けました。残念なことに、伊能は任務を完了することなく、1818年にこの世を去りました。しかし、友達と弟子たちが伊能の仕事を続けました。伊能の死を隠し続けながら、3年後に大日本沿海輿地全図を出版したのです――伊能の名の下に。この美しい「伊能図」は明治時代を通じずっと、そしてその後でさえも、地図作成の基礎になりました。