わやくの部屋

ELEMENT 1 -Lesson 4

Twice Bombed, Twice Survived
2度被爆、2度生還

Section 1

2009年、プラハ市民と世界中の人々が、バラク・オバマ、アメリカ合衆国第44代大統領の言葉を聞きました。

Section 2

「ですから、今日、私はハッキリ述べます――米国が核兵器のない平和な世界を追求すると約束することを。この目標は、すぐには達成されないでしょう。目標の達成には、忍耐と粘り強さが必要となるでしょう。しかし、『世界は変われない』と私たちに語りかける(人々の)声を、私たちは無視しなければいけません。『そうだ、できるんだ!』と言わなければいけないのです」

Section 3

この演説を聞いたすべての人たちが、興奮して喜びの声を上げ、拍手をしました。同じ年、オバマ大統領はノーベル平和賞を受賞しました。普通、ノーベル平和賞は何か偉大なことを(すでに)行った人に贈られます。しかし、核兵器のない世界を求めるオバマ大統領の願いが、2009年、ノーベル平和賞の受賞をもたらしたのです。<

Section 4

オバマ大統領が受け取ったもう1つのものは、年老いた日本人・山口彊(つとむ)さんからの手紙でした。「あなたのプラハでの演説にとても感動しました。私も、世界は核兵器を保持するのをやめるべきだと主張することに、残りの人生すべてを費やすつもりです」と、手紙には書いてありました。

Section 5

山口さんは、2回の原爆投下の生存者として、たった1人だけ認定されている人でした。山口さんは1945年8月6日に、出張で広島にいました。その日に、原爆が広島に投下されました。爆心地から3キロ離れたところにいのですが、上半身に火傷(やけど)を負いました(→火傷を負ただけで済みました)。次の日、山口さんはつらい経験から逃れるために、家へ帰る汽車に乗りました。しかし、山口さんが長崎の自宅に着いたとき、もう1つの原爆が長崎に落とされました。1発目の原爆から3日後のことでした。山口さんは、広島で起こったことをすべて上司に話しているところでした。突然、(1発目と)同じ白い光が部屋を満たしました。「原爆の雲(→キノコ雲)が、広島から私を追いかけてきたんだと思いました」と、後になって、語りました。

Section 6

山口さんを、今までで一番幸運な人だと呼ぶ人もいました。しかし、他の多くの生存者と同じように、山口さんは人生の大部分の間、苦しんでいました。山口さんの気持ちは、日本の伝統的な詩・短歌に示されていました――私は自分を不死鳥だと考えています。今まで生き延びてきています。でも何てつらい日々だったことでしょうか、この過ぎ去った24年は。<

Section 7

山口さんは次のように言いました。「私は原爆についての詩や歌を書いています。そういう詩を書いているとき、あの悲惨な日々を思い出さねばいけません。それは本当に苦痛です。書いているとき、毎晩、毎晩、そのときに見たすべてのことを夢に見ます」

Section 8

息子さんが59歳でガンで亡くなってから後、山口さんは、人前で自分の痛ましい経験について語り始めました。こうした悲惨な経験を伝えることが、自分の運命だと信じていたのです。

Section 9

山口さんは、自分の経験について学校で話したり、本を(数冊)書いたり、被爆生存者に関する映画に出演したりしました。90歳で、ニューヨークにある国連でスピーチさえしました。「私は原爆を2回経験しました。3度目がないことを心からお願いいたします」と語りました。

Section 10

山口さんの夢はすでに、若い人たちに引き継がれてきています。カナダの有名な映画監督ジェイムズ・キャメロンでさえ、山口さんに会って、山口さんの夢を引き継ぐと約束したのです。

亡くなった年に、「私の義務は果たしました」と、山口さんは病院のベッドで言いました。

そうです、山口さんは忠実に、誠実にご自分の義務を果たし終えたのです。