わやくの部屋

PROMINENCE 1 -Lesson 9

Father of the Paralympic Games
パラリンピックの父

Section 1

あなたはパラリンピックが4年ごとに、オリンピックの後に開催されることを知っているかもしれないが、パラリンピックには別の起源があることを知っていただろうか。

それらはルートヴィヒ・グットマン医師によって創設された。

彼は、麻痺患者が充実した人生を送るのを手助けすることに一生を捧げた。

グットマンは、1899年にドイツのユダヤ系の家庭に生まれた。

18歳のとき彼は地元の病院で患者を介助した。

若きアシスタントは、背骨を骨折した若者がギプスで固定されているのを見てショックを受けた。

この男性は体を動かす能力だけでなく、将来への希望も失っていた。

グットマンはその患者が3か月以内に死ぬだろうと告げられた。

しかし、わずか5週間後に彼は死んでしまった。

このショッキングな出来事が、彼に大学で医学を勉強する気にさせた。

1923年に、グットマンは医師として働き始めた。

10年後に、ナチスがドイツで政権に就いた。

ドイツのユダヤ人たちの生活はますます厳しくなってきた。

1939年、グットマンは妻と子供たちと共にドイツからイギリスに逃れた。

数年後、彼はストーク・マンデビル病院に勤務し始めた。

そこが後に、彼の麻痺患者たちの人生を変える場所になったのだった。

Section 2

ストーク・マンデビル病院の患者たちは絶望していた。

彼らのほとんどが重傷で苦しんでいた。

彼らは二度と決して歩けないし、生きるために残された時間は短いと告げられていた。

彼らは本当に意気消沈しており、何をすることに全く興味がなかった。

グットマンは、この状況を変えようと決心した。

彼が最初にしたのは、医療の質を改善することだった。

彼は床ずれを防ぐために、3時間ごとに患者の体位を変えるよう看護師に言った。

床ずれは当時、生命を脅かすものだったのだ。

看護師たちが指示に従っていることを確認するために、彼はよく真夜中に病院に行ったものだった。

彼は病室の状態や患者の食事の質さえも調べた。

グットマンはまた、社会へ復帰するために回復への希望を持ち続けるよう患者を励ました。

彼は患者をギプスから外し、体を起こさせた。

彼は陸軍から身体訓練のトレーナーを雇いさえした。

トレーナーは患者たちの体力を増強するために、彼らにウエートを持ち上げさせたり動かしたりさせた。

数年のうちに、80パーセントの死亡率が80パーセントの生存率に変わった。

Section 3

グットマンは、負傷者の回復のための重要な手段として、スポーツを利用した。

彼が患者たちに最初に導入したスポーツの中に、車いすのポロとアーチェリーがあった。

患者たちは他者と競うのに上半身の力だけを使った。

グットマンは、車いすの患者たちに競技スポーツをさせた。

それは患者を最も元気づけるアイディアの1つだった。

1948年にグットマンは病院の運動場でのアーチェリーの競技会を企画した。

ストーク・マンデビルや他の病院から来た16人の患者たちが、互いに競い合った。

グットマンはこの行事がオリンピック大会のように人気が出ることを強く望んだ。

より多くのスポーツとチームを加えながら、このスポーツイベントは広がり始めた。

1960年には、障がい者のための国際的な競技会がローマで開催された。

23か国から400人のアスリートが競技会に参加した。

このイベントが、最終的にパラリンピック大会へと発展したのだった。

かつてグットマンは「もし私が自分の医学の経歴の中で 1 つ良いことをしたとすれば、それは患者のリハビリテーションにスポーツを取り入れたことです」と言ったことがある。

スポーツは患者のリハビリテーションのためだけではなかった。

患者たちはスポーツをして他の患者たちと競うことを楽しんだ。

これが彼らがより良い気分なるのに役立った。

スポーツはまた、彼らに人々と出会う機会も与えた。

これらの機会が、患者たちが社会に復帰するのに役立ったのである。

Section 4

フィリップ・ルイスはパラリンピックのメダリストで、グットマンの患者の1人だった。

彼はスポーツ療法によって生活の質を向上させた。

フィリップは1962年に自動車事故で首の骨を折って麻痺になった。

最初、病院の医師たちは彼が長くは生きないだろうと思った。

彼はグットマンの指導のもとにベッドで4か月を過ごした。

それから、彼は手の指に改善を経験した。

容態が良くなるにつれて、彼の日々はたくさんのトレーニング計画によってもっと忙しくなった。

彼はそのうえアーチェリーと卓球もやり始めた。

フィリップは卓球にその才能を示した。彼は後にパラリンピック大会で英国の代表になったのだった。

40年以上の間、彼は自分の人生を障がい者スポーツの発展に費やしている。

フィリップは、グットマンにはあることがわかっていたと言った。

スポーツは肉体的にだけでなく、精神的にも良いということだ。

その考えがフィリップの人生に大きな変化をもたらしたのだった。

今日では、パラリンピックの活動は世界中に広がっている。

障がいのあるアスリートの数も増加し続けている。

アスリートたちの身体的障がいにもかかわらず、その競技会はそれらを見ている人たちに希望と勇気を与えてくれる。

アスリートたちは、人生を心ゆくまで生きることがどんなに素晴らしいかを教えてくれる。

重要なのは、できないこと[障がい]ではなく、できること[能力]なのである。