わやくの部屋

POLESTAR 2 -Lesson 8

Nelson Mandela and the Springboks
ネルソン・マンデラとスプリングボクス
スポーツは人々を結び付け、それゆえに社会と社会の構成員に多大の影響を与えることができる人間活動の1つです。次の話しはとても良い例です。

Section 1

スポーツは国と国の歴史を変えることができるのでしょうか? そんなことは奇跡なのではないでしょうか? 実を言うと、そのような「奇跡」が20世紀が終わろうとする頃にアフリカで起こったのです。

1995年、第3回ラグビーワールドカップが南アフリカ共和国で開催されました。ほとんどのラグビーファンは、ニュージーランドのチーム・オールブラックスが、あるいはひょっとするとイングランドかオーストラリアが優勝するだろうと思っていました。南アフリカ自身のチーム・スプリングボクスにチャンスがあるとは、誰も思っていませんでした。スプリングボクスは長年、国際競技から遠ざかっていたのです。

20世紀のほとんどの間、人口のわずか20%にすぎない南アフリカの白人たちが南アフリカを支配しました。自分たちの支配を維持するために、白人は人種差別を基礎とする、アパルトヘイトとして知られる制度を使いました。

アパルトヘイトは世界中の国々から多くの批判を集めました。批判する国の多くが経済制裁を課し、また、南アフリカに国際スポーツ大会に参加させるのを拒否しました(→南アフリカが国際スポーツ大会に参加出来ないようにしました)。

長年にわたる国際的なプレッシャーの末に、ついに、南アフリカ政府はアパルトヘイトの廃止を決めました。同政府は黒人指導者ネルソン・マンデラを釈放し、多民族選挙の実施を許可しました。新しい南アフリカが誕生しました。

Section 2

1994年の総選挙で、マンデラ氏率いる政党、アフリカ民族会議(ANC)が国民の投票総数の60%以上を獲得し、新しい政府を作る権利を手に入れました。マンデラ氏は新しい南アフリカの初代大統領になりました。

大統領として、マンデラ氏は、近づいている世界規模の大会、翌年に南アフリカで開催予定のラグビーワールドカップに熱心でした。しかし、問題に直面していました。南アフリカの黒人たちは、ラグビーを裕福な白人のためのスポーツだと見なしていました。ナショナルチームのスプリングボクスのほとんどすべての選手が白人でした。必然的に、チームは、多数を占める黒人の間では支持を欠いていました(→黒人には人気がありませんでした)。

黒人のうちのほとんどが、チームの名前とユニフォームを完全に変えるべきだと要求しました。しかし、マンデラ大統領は同意しませんでした。黒人の感情は理解していたにもかかわらず、マンデラ大統領は黒人と白人の間の深い溝を埋めなければいけないということを知っていました。大統領は国が一つにまとまる必要性を人々に納得させるために熱心に活動しました。大統領自身が白人によって27年間投獄されていたという事実が有利に働きました。

後でこの問題について語って、次のように言いました。「スポーツはアパルトヘイトの武器だ(→アパルトヘイトを助長するものだ)と見なす雰囲気の中で育ち、外国のチームが南アフリカと試合をするようなときには外国チームを応援するような雰囲気の中で黒人は育ってきたのだから、黒人の怒りと敵対心はよくわかっていました。そういう時に、突然、私が刑務所から出てきて、私たち黒人はこうした白人たちと抱き合わなければいけないと言っているのですから」

Section 3

こうした態度はマンデラ大統領の心の広さ、寛容さの典型でした。政府が変わったときに、白人官僚たちは職を失い、黒人職員に取って代わられるだろうと確信していました。みんな所持品を荷造りし、(職場を)去る準備ができていました。しかし、マンデラ大統領は職務の初日の朝、職員を全員集めて、みんなが去っていくのは自由だけれど、残ってくれることを期待していると語りました。大統領は白人官僚の知識と経験を高く評価していると説明しました。仕事を続けてほしいと思っていました。結局、白人官僚のうちのほとんどが実際に(職場に)とどまって、南アフリカの新政府のために仕事を続けました。

スプリングボクスはというと、マンデラ大統領は、たとえチームには1人の黒人選手チェスター・ウィリアムズしかいなくても、(白人官僚たちと同じように)チームも以前と同じように続けるべきだと信じていました。もっとたくさんの黒人にラグビーの試合に興味を持ってもらうために、大統領はスプリングボクスに地域社会を訪問して、幼い黒人の子供たちにラグビーのことを教えるように奨励しました。白人と黒人の橋渡しの役割をラグビーに果たしてほしいと思っていました。ワールドカップが近づくにつれて、徐々に、ますます多くの黒人たちがスプリングボクスへの支援を示し始めました。

Section 4

大会が始まると、オールブラックスが圧倒的に優位だろうということがはっきりしているように思えました。例えば、オールブラックスは日本チームを145対17で破りました。これは国際ラグビー試合の記録です。予想に反して、スプリングボクスは、何とか決勝トーナメントに勝ち残りました。そこで、さらに驚くべきことに、強豪フランスチームを破ったのです。この時までには、スプリングボクスは南アフリカの白人の応援だけではなく、黒人の応援も受けていました。黒人たちも今では「我がチーム」とスプリングボクスを呼んでいました。

スプリングボクスとオールブラックスの間の決勝戦は、ラグビーの歴史で一番いい試合の1つでした。前後半を終えて両チームとも9点で、試合は延長に入りました。両チームはあらゆる力を振り絞って、互いに3点ずつ加えました。それから終了間際、ジョエル・ストランスキーがドロップゴールで得点を挙げ、南アフリカが優位に立ちました。ちょうど6分後に、審判は笛を吹き、試合は終了しました。南アフリカが勝ったのです! 南アフリカにとってはとても大きな1日でした。

試合終了直後、レポーターがキャプテンのフランソワ・ピナールに、チームを62,000人のファンが応援していてどんな気分だったのか質問しました。「僕たちを応援してくれたのは(ここに来てくれた)62,000人のファン(だけ)じゃない。4,300万人の国民全員だよ!」と答えました。それから、スプリングボクスのユニフォームを自らも着ていたマンデラ大統領からワールドカップ優勝トロフィーを受け取りに行きました。スポーツ(関係)の歴史の中でも本当に象徴的な瞬間でした。ほとんどの黒人が、自分たちが生きている間に見ることなんかできないと思っていた瞬間でした。