わやくの部屋

POLESTAR 2 -Lesson 7

Sawada Miki ―― Mother of Two Thousand
澤田美喜――2,000人の母さん
差別と闘うことは決して簡単ではありません。しかし、ここでは、差別と闘う勇気と決意を持った人について学びましょう。

Section 1

小さな出来事が人の一生に劇的な影響を持つことがあります。これは第2次大戦直後、日本の混雑した汽車の中で、ある女性に起きたことです。何か風呂敷に包まれたものが網棚から落ちてきました。そこで、女性は拾い上げ、元に戻しました。

汽車に乗っていた2人の警官は、その風呂敷包みは怪しそうだと思い、女性に開けるようにお願いしました。中には、衝撃的なものが入っていました。黒い肌の赤ん坊の死体でした。警官は、赤ん坊はこの女のものだ、死体を捨てに行く途中なんだ、と即座に考えました。女性は猛反発しました。「どなたかこの汽車に乗っているお医者さんをご存知でしたら、すぐここに連れてきてください。私が最近、子供を産んでいないということを証明してもらうために、今ここで真っ裸になって、診てもらいます!」 その時、近くにいたある老人が1人の女の子がその風呂敷包みを網棚に置いたと説明しました。

この出来事の後、その女性は、そういう(見捨てられた)子供たちをお救いなさいと神が彼女に出された啓示であるかのように感じました。女性の名前は澤田美喜でした。翌年、1948年、捨て子のために神奈川に孤児院を開きました。特に、パパが占領アメリカ軍の兵士だった子供たちのための孤児院です。

Section 2

澤田さんは1901年、東京の裕福な岩崎家に生まれました。特権的な子供時代を過ごしました。21歳の時、外交官と結婚して、一緒に海外に行きました。1930年代初頭までには、ロンドンに住んでいました。ロンドンにいるときに、孤児院を訪れました。そこは「バーナード博士の孤児院」と呼ばれていました。澤田さんは、バーナード孤児院の暖かく明るい雰囲気にとても感動しました。子供たちは楽しそうで元気そうに見え、素敵な服を着ていました。日本に帰って同じような孤児院が作れたら、どんなにか素晴らしいことだろう、と澤田さんは思いました。

その後、澤田さんは旦那さんと一緒にパリに引っ越し、アフリカ系アメリカ人の歌手・女優のジョセフィーヌ・ベーカーさんに出会いました。2年後、澤田夫妻はニューヨークに引っ越しました。澤田さんは、歌の歌える女優のベーカーさんがニューヨークのショーに出演するために招待されていたとき、友情を温め直す機会を得ました。

ベーカーさんは白人ではありませんでしたから、不運にも、ホテルで部屋を見つけられませんでした。澤田さんはベーカーさんに自分のアパートに止まってもらいたかったのですが、管理人から反対されました。「もし住んでいる人たちが黒人女性がここに泊まっているのを見たら、みんな反対するだろう」と管理人は言いました(→というのが反対の理由でした)。たとえ自国の娘たちのうちの1人が海外で大きな成功をおさめていたとしても、アメリカはその女性を拒絶した(→たとえアメリカ出身の女性の1人が海外で名をはせたとしても、その女性はアメリカで受け入れられることは決してないのね)と言って、ベーカーさんは一晩じゅう泣き明かしました。

Section 3

合衆国で3年過ごした後、澤田夫妻は日本に帰りました。間もなく、世界は一方に米国、他方に日本が対峙する戦争状態になりました。戦争が最終的に終わった時、戦勝国アメリカは財閥を解体し、岩崎家の財産を没収しました。

自分の孤児院を作るために、澤田さんは寄付を募る手紙を数千通書きました。そのお金で、岩崎家の財産の一つを買い戻し、捨て子たちのために、特に混血の捨て子たちのためにエリザベス・サンダースホームを設立しました。子供たちはそこらじゅうから集まってきました。誰一人として入所を断られませんでした。

当時、日本では、差別はごく普通のことでした。縮れ毛の子供、肌の黒い子供、青い目をした子供たちは日本の社会から拒絶されていました。澤田さんが救いたいと思っている子供たちでした。結果的に澤田さんは苦しみました。「こいつらは日本を滅茶苦茶にした奴らのガキだ」と人々は怒って澤田さんに言いました。そして、澤田さんが子供たちと一緒に外出すると、みんな周りに群がってきて、いじめたものでした。

あらゆる困難にもかかわらず、澤田さんはこうした子供たちを助けることに大きな喜びを見出していました。とりわけ、そうした喜びと比べれば世俗的な財産は大切ではないと理解していました。

Section 4

特に1つの事件は澤田さんによって決して忘れられることはありませんでした(→特に、澤田さんが絶対に忘れられない事件が1つありました)。マイクという名の黒人の男の子に関係していました。マイクのパパのジョンソンさんはアメリカ海軍の乗組員でした。パパは、マイクのママ(日本人)と結婚すると約束しました。しかし、ある夜、お酒に酔ってけんかして、別のアメリカ人を殺してしまい、米国の刑務所に送られてしまいました。7年間、パパはエリザベス・サンダースホームにお金を送り続け、マイクのママに毎週手紙を書きました。

澤田さんは刑務所にいるパパを訪ねる決心をしました。ひとたび自由になったら、ママと子供と一緒に住む計画だ、とジョンソンさんは話してくれました。しかし、そのとき突然、顔を覆い、こう言いました。「マイクとママは、俺のことを忘れた方がいいんじゃないか」と。たとえそうであっても、澤田さんは決して希望を捨てませんでした。そして、ジョンソンさんも決して希望を捨てるべきではない、と澤田さんはジョンソンさんに言いました。実際に、ジョンソンさんは結果的に刑務所から釈放され、マイクと再会しました。

2,000人以上の子供たちの理想の母親像だった澤田美喜さんは78歳で亡くなりました。死を前にして、いつも捜し求めていた大きな目標について、次のように話しました。「私の全人生は、人々が混血児たちに関する残酷なことを言わないような場所を、誰も偏見の眼差しで見られないような場所を、誰もがみんなプライドを持って通りを歩いて行けるような場所を探す旅でした」