わやくの部屋

POLESTAR 2 -Lesson 5

Isamu Noguchi ―― Artistic Genius
イサム・ノグチ――芸術的天才

例えば、絵画、彫刻、建築といった芸術の1つのジャンルに専念するタイプの芸術家もいれば、いろんなジャンルで偉大な作品を創作するタイプの芸術家もいます。これは一人のマルチなタイプの芸術家の物語です。

Section 1

日本の古い提灯を思い出させてくれる伝統的な和紙の照明からにじみ出てくるやさしい光――これがイサム・ノグチがデザインしたランプのロングセラー「あかり」シリーズの効果です。しかし、イサムはランプのデザイナーにとどまりませんでした。イサムの活動は家具、インテリアデザイン、建築、造園、噴水芸術までも含んでいました。こうしたこと(=広範囲の芸術活動)を受けて、「地球を彫る芸術家」として知られるようになりました。

イサムは多作な芸術家でした。イサムの公共作品はたくさんの場所で目にできます。ほんの少し例を挙げると、ヨーロッパ、イスラエル、メキシコ、それにアメリカ合衆国があります。日本はというと、61もの作品が国内の様々な場所で保たれて(→展示されて)います。例えば、彫刻の森美術館では、来館者はイサムの彫刻のうちの数点を見つけ、触れることさえできます。

国境と時間の両方を乗り越えて、イサム・ノグチの名前はアート・デザインの世界で燦然と輝いています。イサムのことを第2のミケランジェロだと言う人すらいます。自身の文化的根幹をアメリカと日本の両方に持っているイサムの芸術的才能はどのようにして花開いたのでしょうか? この問いに対する答えは、波乱万丈な人生を振り返ることで見つけられます。

Section 2

イサム・ノグチは1904年、ロサンゼルスに、日本人詩人であり作家の野口米次郎とアメリカ人作家レオニー・ギルモアの子供として生まれました。イサムは合衆国で人生の最初の2年を(→アメリカで2歳になるまで)過ごしましたが、その後、日本で暮らすためにに連れて来られました。しかし、その時までには、米次郎は日本人女性と結婚していました。そんなわけで、レオニーは幼いイサムと2人だけで暮らさなければいけませんでした。日本での生活を軌道に乗せるために英語を教え熱心に働きました。

 とても幼い子供の頃でさえも、イサムは芸術的才能を示しました。イサムの正確で詳細な絵は幼稚園の先生たちを驚かせました。それから、6歳の時には、粘土の作品を1つ作りました。驚くほど生き生きした「波」の彫刻でした。これは、ひょっとすると太平洋を渡った時の航海の記憶だったのかもしれません。

 小学校では、イサムはひどいいじめにあいました。いじめが原因で横浜のインターナショナルスクールに転校しました。しかし、ここでもイサムの(日米の)混じり合った文化的背景から生じる偏見に苦しむことになるのでした。この困難な時期に、お母さんは大切な課題を与えて(その課題に集中させることでイサムを)救うことにしました。家族3人のために新しい家を設計するという課題です。9歳の時に考えついたアイディアは、お母さんが考えていたのよりさらに大きな能力を示していました。並外れた才能を育んであげるのが義務だと、お母さんは実感しました。

Section 3

1918年、イサムが14歳の時、お母さんはイサムを一人でアメリカに帰国させました。勉強はずば抜けて出来て、結局はクラスで1番の成績で高校を卒業しました。コロンビア大学の医学部に入学しました。しかし、在学中に医学の道を歩むべきか、芸術の道を歩むべきか迷い始めました。その頃、有名な日本人細菌学者の野口英世に会いました。野口はイサムの芸術的才能を認めて、芸術に専念するように言いました。イサムはまだ医学校に在籍していましたが、それから、美術学校にも通い始めました。

 晩年に回想して、イサムは本当の自分(とは何かという感覚)と芸術面の関連性についてこう述べました。「自分が自分であるという問題はとても不確かです」と自分と同じような背景を持つ人について語りました。「私がそもそも本当の自分をともかく見つけられたのは芸術だけだったと思います」

 1927年、イサムは奨学金を受け、パリに行きました。モンパルナスのアトリエに住みつき、芸術的創造に打ち込みました。最後にはニューヨークに帰って、芸術にエネルギーを注ぎ続けました。次第に、イサムは作品に対するますます高い評価を勝ち得ていきました。

Section 4

イサムの人生は必ずしも順風満帆とはいきませんでした。イサムは日米両国の間で引き裂かれるように感じることが何度もありました。第2次大戦中の1942年、合衆国政府が日系アメリカ人を処遇する方法に公然と反対しました。日系アメリカ人は民間人収容所に入れられていました。抗議として、自ら進んでそうした収容所に入りました。

 芸術家としても、イサムは困難な時期を経験しました。原爆犠牲者にささげる広島の記念碑(→平和記念公園内の慰霊碑)やケネディー大統領のお墓(→慰霊碑記念碑)のような重要な計画の設計に貢献したいと希望しました。しかし、どちらの事例でもイサムの案は採用されませんでした。

 幼い頃から、(文化的に)属していた日米両国(訳者注:イサムの国籍はアメリカ合衆国でした)のどちらにも完全には受け入れられないことに、イサムは情緒的に混乱して(→精神面で落ち着かない状態で)いました。しかし、晩年には、イサムは両国で広く評価される状態を享受し始めました(→日米両国で広く評価され始めました)。1987年、イサムは合衆国政府が芸術家に与える(ことのできる)最高の賞である国民芸術勲章を授与されました。翌年、死の数か月前、イサムは日本でも同じように栄誉を称えられました。瑞宝章(ずいほうしょう)を授与されたのです。この2つの勲章は、世界中で何百万人もの人に今でも楽しまれている遺産を残した1人の天才芸術家にふさわしい、感謝のしるしでした。真の芸術は常に国境を乗り越えるということを、もう一度示しています。