わやくの部屋

POLESTAR 2 -Lesson 10

Donald Keene ――
Opening a Window on Japanese Culture
ドナルド・キーン
――日本の文化を知ろう

外国のことをほとんど、あるいはまったく知らないまま一生を送る人もいます。しかし、海外の場所に魅せられる人もいます。ここに1人のそうした人の物語があります。

Section 1

2011年4月、日本文学の著名なアメリカ人学者ドナルド・キーンさんは世界中のメディアの注目を集める発言をしました。キーンさんが56年間教鞭をとっていたコロンビア大学での最終講義で、日本に移住し、日本で人生の残りを過ごすことにしたと発表したのです。2011年3月の日本での災害の後、多くの外国の人たちが日本を離れました。そんなわけで、キーンさんの発言は多くの人に驚きをもって迎えられました。

ドナルド・ローレンス・キーンさんは1922年、ニューヨークに生まれ、16歳の時にコロンビア大学への入学を許可されました。2・3年経って、ニューヨークの本屋さんでぶらぶら本に目を通しているときに(→立ち読みしているときに)、アーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』に出会いました。キーンさんはすぐに、『源氏物語』が描く華麗な遠く離れた世界に魅せられました。その後すぐに日本語の勉強を始め、漢字と仮名の両方を使う(ことに伴う)複雑な書き方に魅了されました。

当時、角田柳作という名の日本人学者が、日本の思想史に関する講座を(コロンビア大学で)開きました。キーンさんは現れたたった1人の学生でした。しかし、角田氏は、学生は一人いれば十分だと明言し、講義を進めました。キーンさんは、黒板にぎっしり詰め込まれた漢字を全部ノートに熱心に書き写しました。時が経つにつれて、日本への興味は大きくなっていきました。

Section 2

1941年12月、日本は真珠湾を攻撃しました。合衆国海軍が日本語学校を持っていることを知り、キーンさんは海軍入りを志願し、受け入れられました。11か月の勉強の末、真珠湾に送られ、捕捉した日本語の文書を翻訳する仕事を与えられました。

ある日、キーンさんは、死亡した日本人兵士たちの日記が入った大きな木箱を偶然見つけました。兵士たちの最後の苦しい日々の記述は、実に感動的なことに気づきました。日記を見つけた人は誰でも、日記を兵士の家族に返してくれるように懇願するメッセージが日記の中にありました。キーンさんはこうした願いをかなえる決心をして、自分の机に日記を隠しました。しかし、とても残念なことに、この日記は後になって上官に見つかって、取り上げられてしまいました。

広島に原爆が落とされたことを知ったときに、キーンさんはホノルルにいました。その直後、戦争終結が発表されました。日本人捕虜との話し合いで、みんな日本に帰りたいと切実に思っているのだけれども、恥ずかしくて帰れないということをキーンさんは知りました。捕虜になることは恥であり、死んだ方がましだと、みんな信じ込まされていたのです。それは正しくない、日本に帰国して国の再建を担うべきだとキーンさんは捕虜たちに話しました。

Section 3

戦争がついに終わると、キーンさんは司令官から中国行きを命じられました。合衆国に帰る途中に、1週間程度日本を訪れることにしました。1945年12月に日本に着きました。東京の荒廃ぶりを目の当たりにして衝撃を受けました。しかし、日本人の態度に感動しました。ひどい状況にもかかわらず、みんな高潔さと礼儀をもって行動し続けたのです。例えば、混雑した上野駅では、汽車を待つときに、日本人は今まで通りきちんと列を作っていました。

日本への旅の後、キーンさんは合衆国に戻って、海軍をやめました。コロンビア大学で研究を進め、その後ハーバード大学、さらにケンブリッジ大学でも研究をさらに進めました。ついに1953年、再び日本を訪れました。今度は京都大学で日本文学を研究するためでした。

京都には魅力的に思えることがたくさんありました。美しい建築、玄関で揺れる提灯、通りを歩く舞妓さん。とりわけ、狂言を楽しみました。伝統芸術を研究することが、日本文化の理解を深める一番いい方法だということに気づきました。

京都にいる間に、キーンさんは新しい友達を作りました。合衆国にいたことがあり、キーンさんが滞在していた家の1部屋に当時引っ越してきた京都大学の教授と知り合いになりました。後に文部大臣になる永井道雄でした。また、キーンさんはたくさんの日本人作家とも知り合いになりました。三島由紀夫や川端康成や阿部公房のような人物も含まれていました。

Section 4

京都で2年を過ごした後、キーンさんは日本文学を教えるためにコロンビア大学に戻りました。しかし、定期的に日本を訪れました。1961年、1年間の有給休暇を得て、東京で過ごすことにしました。日本の演劇について読み、能と歌舞伎の上演を見てすべての時間を(→日本滞在期間中ずっと)過ごしました。

その後何年もの間、キーンさんは毎年、東京でしばらく過ごし、日本と日本以外の世界の国々との間に橋を作ろうと積極的に活動しました。日本語から英語に文学作品を翻訳し、自分でも多くの作品を書いて、日本文学の宝物(→素晴らしい作品)を世界に示しました。また、合衆国中の大学に手紙を書いて、能の上演を提案しました。多くの大学がキーンさんの提案を受け入れ、結局36回の上演が行われました。2008年に、日本文化についての知識を広めるキーンさんのたゆまない貢献が評価され、日本で最高の文化勲章が贈られました。

キーンさんがコロンビア大学を引退することを考えていた矢先に、東日本大震災が東北地方を襲いました。地震の恐ろしい影響を伝えるニュースと被災地再建に向けて熱心に努力する日本の人たちの(姿を伝える)報道によって、キーンさんは終戦直後の日本の記憶を甦らせました。国民の勤勉さと誠実さに感銘を受け、希望を捨てない姿勢に再び心を動かされました。キーンさんは、日本国民になって、愛するようになった国で残りの人生を生き抜く決心をしました。