わやくの部屋

ELEMENT 3 -Lesson 9

Darwin and Wallace

ダーウィンとウォレス

Section 1

1831年12月27日、ビーグル号は大西洋を横断する航海に出ました。乗船していたのは22歳になる博物学者チャールズ・ダーウィンでした。ダーウィンは『種の起源』という本の著者として、今ではよく知られています。

Section 2

チャールズ・ダーウィンは1809年、裕福な家庭に生まれました。お父さんはダーウィンに医学の勉強をしてほしいと思っていました。しかし、お父さんはダーウィンが医学にまったく興味を持っていないことがわかり、それで、ダーウィンをケンブリッジ大学に行かせて、司祭になるために勉強させました。ケンブリッジで勉強している間に、ダーウィンはいろんな科学者に会う機会をたくさん手にしました。出会った科学者たちの影響を受け、ダーウィンは次第に自然に興味を持ち始めました。

Section 3

ビーグル号が航海に出発する前に、ある教授からの手紙にダーウィンは刺激を受けました。その教授はダーウィンに航海に参加するように勧めました。お父さんはダーウィンに司祭になってもらうという希望をまだあきらめてはいませんでしたから、ダーウィンは船に乗せてもらえるようにお父さんを説得しなければいけませんでした。おじさんの助けのおかげで、ダーウィンはついにお父さんを説得するのに成功して、ビーグル号の乗組員の1人になりました。

Section 4

3年間航海をした末に、ビーグル号はガラパゴス諸島に到着しました。航海の間に、気候が変わるにつれて、植物や動物の種類が同じように変わることに、ダーウィンは気づいていました。ガラパゴス諸島では、フィンチと呼ばれる鳥に関する奇妙なことに気づきました。ガラパゴス諸島のどの島でも、いろんな種類のフィンチを見つけました。ダーウィンはくちばしの違いに気づきました。くちばしの長いフィンチもいますし、短いフィンチもいました。大きいくちばしのフィンチもいますし、小さいフィンチもいたのです。

Section 5

ガラパゴス諸島を出発した後、ビーグル号はオーストラリアや、近くの島々の港に立ち寄りました。カンガルー、ワラビー、ウォンバットのような固有動物たちはダーウィンをなぜオーストラリアでだけ見られるのだろうと不思議に思わせました(→カンガルー、ワラビー、ウォンバットのような固有種の動物たちを見て、ダーウィンは、なぜオーストラリアにだけこうした固有種がいるのだろうと不思議に思いました)。昔はオーストラリアはアジアの一部だった、後にアジア本土から切り離された後で、独自の動物たちが別々に進化したと、ダーウィンは考えました。

Section 6

ダーウィンは1836年10月にイギリスに帰国しました。次の年に、ダーウィンは進化に関する最初のノートを書き始めました。その時までに、ダーウィンは、種は変化できると確信していました。しかし、もし進化が起こるとすれば、何によって起こるのだろうかという1つの大切な疑問が未解決のまま残っていました。1838年、ダーウィンは進化に関する真実を解明するのを大いに手助けしてくれる本に巡り合いました。その本はイギリスの経済学者トマス・マルサス(1766-1834)の『人口論』でした。自著の中で、マルサスは、世界の人口が早く増えすぎているから、数百万人もの人がなくなるだろうと予言しました。マルサスはまた、人間は限られた資源を求めて競争するものだとも書きました。この考えのおかげで、ダーウィンは必要だった仕組みを解き明かすことができました。

Section 7

ダーウィンは、自らの考えと競争というこの考えを組み合わせることによって、進化がどのようにして起こりうるのか説明しました。いかなる種もかなり変異を持つ個体から成り立っている(→どの種もかなりの個体差のある個々から成り立っている)と、ダーウィンは述べました。また、個体数の増えている中、資源が乏しいと、同じ種の個体間の競争が始まることになると説明しました。こうした競争で、命を落とした個体もいれば、生き残る個体もいたことでしょう。例えば、キリンは食糧不足のせいで長い首を獲得したのです。首の短いキリンは死に、首の長いキリンはエサを食べるということに関しては有利だったので生き残ったのです。ダーウィンはこのことを「適者生存」と呼びました。有利な変異を持つ個体は、生き残り、繁殖する可能性が(そうではない個体より)高いと結論づけました。

Section 8

ビーグル号の航海から約20年後に、ダーウィンはインドネシアの島カリマンタンから出された1通の手紙を受けとりました。その手紙には自然選択による進化の理論に触れる短い論文が同封されていました。ダーウィンは、その論文が自分が何年もの間、発展させ続けてきている理論にとてもよく似ていることに気づき、驚きました。

Section 9

その論文を書いたのは、ウェールズ生まれの若いイギリス人博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスでした。ウォレスは3冊の本に助けられ、進化論という考えに思い至りました。1冊はマルサスの『人口論』でした。チャールズ・ダーウィンが適者生存について考察するのにも影響を与えた本でした。もう1冊はチャールズ・ダーウィンの生き生きとした旅行記『ビーグル号航海記』でした。最後の1冊は1844年に匿名で出版された『創造に関する自然史の痕跡』でした。この本は1つの種が外部状況によって他の種に変えられるという考えを示唆していました。

Section 10

こうした(3冊の)本に影響され、ウォレスはアマゾンの熱帯雨林への旅に出かけました。ダーウィンとは違って、ウォレスにはほとんどお金がありませんでしたから、数多くの珍しい標本をイギリスに送って、イギリスの博物館や個人の収集家に売ることによってお金を稼がなければいけませんでした。ウォレスがイギリスに帰った後、すぐに別の旅行を計画しました。ウォレスは、今のインドネシアとマレーシアに探検に出かけ、野外調査を行いました。現地を探検しながら、ウォレスはある狭い海峡を越えたところで動物地理学的な違いに気づきました(→ウォレスはある狭い海峡をはさんで動物地理学的な違いがあることに気づきました)。この境界線は今では、ウォレス線として知られています。ウォレスは自分の考えをまとめて、論文を書きました。これをダーウィンに送ったのでした。

Section 11

ウォレスの論文はダーウィンだけではなく、ダーウィンの同僚の科学者たちも同じように驚かせました。それはダーウィンとウォレスはほぼ同じ結論に到達しているからでした。他の科学者から励まされて、ダーウィンはある科学の会合で(→ある学会で=1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で)自分の理論とウォレスの論文を共同で発表することに決めました。ウォレスの進化に関する論文のおかげで、ダーウィンは自らの本『種の起源』を書く気になったのです。この本が1859年に出版されたとき、ウォレスはまだ東南アジアでの野外調査を続けていました。ウォレスは『種の起源』を1冊受け取り、ダーウィンが何て上手に進化の考えを要約しているのか感動しました。

Section 12

1859年のダーウィンの本『種の起源』の出版は生物学を大きく変えました(→1859年、ダーウィンの本『種の起源』が出版され、生物学は大きく変わりました)。すべての生き物は神によって創造されたと、誰もが信じていた時代に、ダーウィンは自然選択が進化の主な原因であり、進化は生き物たちのすべての変異を引き起こしたとする考えを提案したのです。この考えは衝撃的ではありましたが、他のたくさんの科学者たちは、進化は自然選択によって起こると納得するようになりました。今日では、この理論は生物学の主流としての承認を得ています。

Section 13

もしアルフレッド・ラッセル・ウォレスが同じ考えを思いついて、東南アジアから例の手紙を送っていなければ、ダーウィンは『種の起源』を決して書かなかったかもしれません。『種の起源』の出版の後でさえも、この2人の偉大な科学者の友好的な関係はずっと続きました。もし2人がほぼ同じ時期に同じ結論に達するという偶然の一致がなかったとすれば、進化生物学は今日とは違ったものになっていたことでしょう。