わやくの部屋

ELEMENT 3 -Lesson 10

Invisible Gorilla

見えないゴリラ

Section 1

私たち2人は、10年以上前に、クリスがハーバード心理学系大学院生で、ダンが新任の助教授として着任したばかりのときに出会いました。クリスのいる研究室はダンの実験室から廊下を降りて行ったところ(→廊下の先)にありました。私たちは、人は目に見える世界をどのようにして認識し、記憶し、考察するのかというお互い共通の興味をすぐに見つけました。ダンが指導助手としてクリスを使っていた研究方法を教える講義で、学生たちは教室での学習の一環として、いくつかの実験(=教室外での実験)を行う際に、私たちに協力してくれました。そのうちの1つが有名になっています。それは1970年代、この分野の先駆的な心理学者ウルリック・ナイサーによって行われた視覚注意と認識に関する一連の研究に基づいていました。ナイサーは、ダンがコーネル大学の大学院の最終学年にいたときに、着任してきたのでした。2人の間の多くの会話に刺激を受け、ダンはナイサーの初期の革新的な研究を基にして研究を進めることにしました。

Section 2

学生を役者に仕立て、心理学科の建物の空きフロアーを撮影現場として、僕たちは2つのチームに別れた人が動き回って、バスケのボールをパスするという短いフィルムを作りました。1つのチームは白いシャツを着て、もう1チームは黒いシャツを着ました。ダンはカメラを担当し、監督もしました。一方、クリスは(両チームの選手の)動きを合わせ、どのシーンを撮影する必要があるのかを常にチェックしました。それから、そのフィルムをデジタル編集し、学生がハーバードのキャンパス内に散らばって、実験を行いました。学生はボランティアに次のようにお願いしました―― 黒いシャツを着ている選手のパスはすべて無視しながら、白いシャツを着ている選手がパスをした回数(だけ)をだまって数えるように。ビデオの長さは1分未満でした。ビデオが終わったらすぐに、学生は被験者に数えたパスの回数を言ってもらいました。正しい答えは34回か、あるいはひょっとして35回でした。ホントのところ、パスの回数なんて問題じゃないんです。パスを数えるという作業は、人々に、画面上の動きに注意を求めるモノを行うことに従事させ続けることを意図されていました(→パスを数えうというのは、みんなに、画面上の動きに注意を集中してもらい続けるためのものでした)。しかし、パスを(正確に)数える能力には、実は興味がありませんでした。実際は他のことを実験していたのです――ビデオの真ん中あたりで、全身黒いゴリラの着ぐるみを着た女子学生が、場面に歩いて登場し、選手たちの真ん中で立ち止まって、カメラに向かって、胸をたたき、それから歩いて立ち去るのでした。画面上に約9秒映っていました。

Section 3

パス(の回数)を被験者に尋ねた後で、驚いたことに、研究に参加してくれた被験者のほぼ半数がゴリラに気づかないことがわかりました。それ以来、この実験は異なった条件で、多様な被験者で、多くの国で繰り返されています。しかし、結果はいつも同じです。約半数の人がゴリラを見逃すのです。一体どのようにして、ゴリラが目のすぐ前を歩いて、こっちを向いて、胸をたたき、立ち去るのを見ないなんてことがありうるのでしょうか? なぜゴリラが見えなくなってしまったのでしょうか? 認知のこうした失敗は、予期せぬ物体への注意の欠如から来るのですから(→思ってもいなかったモノに注意を払えなかったことが原因ですから)、(こうした認知の失敗は)「不注意による見落とし」という科学上の名前で通っています。この名前は、視覚の仕組みに損傷を受けていることに起因する盲目の形と、不注意による見落としを区別してくれます。ここでは、人はゴリラが見えないのですが、それは目に問題があるからではありません。人が注意を目に見える世界の特定の分野や部分に集中させると、予期しなかった物体が目立っていて、潜在的に重要であり、しかも、今まさに見ているところに現れるとしても、その物体に気づかない傾向があります。言い換えると、被験者はパスを数えることに集中しすぎてて、目の真ん前にいるゴリラを「見落とす」のでした。

Section 4

しかし、僕たちが一番興味を持ったのは、全体としての不注意による見落としでもないし、個別的なゴリラの研究でもありませんでした。人がモノを見逃したという事実は大切なのですが、さらにもっと印象的だったのは、見逃してしまったものがわかったときの、みんなの驚き(具合)でした。今度はパスを数えないで、もう一度ビデオを見ると、1人残らず簡単にゴリラに気づいて、みんなショックを受けました。即座に、「あれを見逃したって言うの?」とか「ありえない!」と言う人もいれば、「1回目のビデオでは、ゴリラはそこを通り抜けてなんかいないってことくらいはわかるよ」と言って取り合ってくれない男子学生もいましたし、見てないところでビデオテープをコッソリすり替えたんじゃないのかって私たちを責める被験者もいました。

Section 5

私たちのゴリラの研究は、「注意の錯覚(=隅々にまで注意が行き届いていると錯覚してしまうこと)」が力強く、広い範囲にわたって影響を与えていることを説明してくれます。私たちは(目に見える世界は完璧に全部見ているはずだと思いがちですが、実際は)そうしてると思っているのより、目に見える世界のうちのはるかに狭い部分しか経験していないのです。もし私たちの注意が及ぶ限界を十分に理解していれば、錯覚は消えてなくなることでしょう。現実の世界のいくつかの部分を、特に注意を集中させている部分を生き生きと経験しているというのは本当です。しかし、こうした豊かな経験のせいで、身の回りにある細かな情報まですべてを処理していると、間違って信じ込んでしまうことがよくあります。本質的には、現実の世界のいくつかの部分をとても生き生きと見ていることを知っています。しかし、現実の世界の中で、今、注意を向けている範囲の外側にある部分(もあること)にまったく気づかないでいます。言い換えると、私たちは、見た目が独特な物体や、見た目が普通じゃない物体は、自分の注意を引くものだと想定するのですが、実際には、こうした物体は完全に気づかれないままのことが結構あります。

Section 6

それでは、誰が予期しない物体に気づくのでしょうか? この(見えないゴリラの)影響はとても印象的ですから、ゴリラに気づくのか気づかないのかを決める、人格の大切な部分が何かあるはずだと、誰しも、思うことがよくあります。ゴリラのビデオが人格のタイプを決めるカギとして直感に訴えかけてくるにもかかわらず、注意力や他の能力の個人差が不注意による見落としに影響するという証拠は、ほとんどまったくありません。例えば、ゴリラの実験を経験したことのあるたくさんの人は、この実験をある種の知能テストあるいは能力検査だと見なします。しかし、ハーバードの学部生に対して行われた元々の調査は、より少なく一流の大学(→いくぶん程度の低い二流・三流大学)での結果や、(そもそも)学生ではない被験者に対する結果と同じものでした。同じように、フィンランドの会社によるオンラインでの調査によると、女性の方がマルチタスキングが(男性より)もっと得意だと、女性も男性も60%の人が考えているということです。これは、女性の方が男性よりもゴリラに気づく可能性が高いだろうということを示唆しています。(でも)残念なことに、マルチタスキングに関するこうした通念を支持する、実験に基づく証拠はほとんどありませんし、男性は女性よりもゴリラを見逃しがちだという証拠もまったく見つかってはいません。

Section 7

もし、こうした注意の錯覚がこんなにも、はびこっているとすると、どのようにして、人類は生き延びて、注意の錯覚に関して(私たちが今、実際に書いているように)書くことができるのでしょうか? なぜ、私たちの自称ご先祖様たちは、気がつかなかった捕食者に、みんな食べられてしまわなかったのでしょうか? (理由の)一部としては、不注意による見落としと、それに伴う注意の錯覚が、現代社会が生み出したものだからです。私たちのご先祖様たちは認識に関して、(私たちと)同じような限界を持っていたに違いないにもかかわらず、複雑さが今ほどではなかった世界(=ご先祖様たちの生きた社会)では、気づかなければいけないものが今より少なくて、すぐに注意を向ける必要のある物体や出来事も少なかったのです。対照的に、(現代は)科学技術の進歩のせいで、ドンドン短い準備時間で、ますます頻繁に、注意をずっと多く必要とする装置が増えてきているのです。人類の視覚と注意の神経回路は、車を運転するスピード用ではなく、歩くスピード用に作られています。歩いているときには、突然の出来事に気づくのが数秒遅れたところで、さほど大切ではないでしょう。しかし、運転中は突然の出来事に気づくのがたとえ10分の1秒でも遅れてしまうだけで、当人が死んでしまったり、あるいは、他の誰かを死なせてしまうこともあります。科学技術は能力の限界を克服するのに役立ちますが、どんな科学技術の補助にも限界があるということを認識する場合に限ります。科学技術の限界を誤解すれば、こうした(科学技術の)補助が、(逆に)身の回りにあるものに気づく可能性を実際に低くしてしまいかねません。注意の錯覚に意識的になることによってのみ、見なければいけないものを見逃さない対策を講じることができるということを覚えておかなければいけません。