わやくの部屋

CROWN 1 -Lesson 7

Paper Architect
紙の建築家

坂茂は世界的に有名な建築家です。彼は、フランスの美術館とドイツの万国博(ハノーバー万博2000)で日本館を建てました。おそらく、彼は紙菅のような珍しい素材を使うことでいちばん知られています。

Section 1

1995年1月17日、阪神地域で大きな地震がありました。

坂茂さんは神戸に行き、ひどく破損した教会の近くに立つたくさんの地震被災者を見ました。

彼は神父に「紙管を使って新しい教会を建ててみませんか?」と尋ねました。

最初、神父は申し出に同意ませんでした。

最も重要なのは被害者のための住宅でしょう、と彼は言いました。

坂は神父を説得すべく何度も教会を訪れました。

地震被災者のためのコミュニティセンターとして機能するため、教会は重要です、と彼は神父に話しました。

ついに、神父は坂の考え方を受け入れました。

坂と300人を超えるボランティアが力を合わせ、教会を建設しました。


Section 2

坂は困っている人を助けることにいかにして興味を持つようになったのでしょうか?

そして、彼はなぜ紙管で建築をはじめたのでしょうか?

坂が1984年に建築家として働きはじめたとき、彼は他の建築家とは違っていたかったのです。

彼はしばしば、彼らは豊かで強力な人々のために働くことに興味があるように見えました。

一方、建築家として自分は災害を被った人を助けるべきだ、と彼は感じました。

彼は強くて手に入りやすいので、災害救助のために紙管を使い始めました。

神戸での仕事に加えて、坂は中国で紙管の学校を、そしてニュージーランドで紙管の教会を建てました。

坂はまた宮城の仮設住宅を建てるために船積み用のコンテナも使いました。

坂の成功のカギのひとつは、彼が自らの道を妨げるものはいかなるものも許容しないことです。

2010年ハイチで大地震があったとき、空港が閉鎖されました。

坂はあきらめませんでした。

彼はドミニカ共和国に飛び、何人かの学生とともに、6時間かけて車を運転してハイチに駆けつけました。

そして、彼らは紙管を使って被災者避難所を建てました。

Section 3

1995年に坂は、ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)という名のNGOを立ち上げました。

VANは地震や戦争などの世界中の被災者の支援活動をしています。

坂は、救援建築物は美しくあるべきだと信じています。

それらは災害犠牲者の自尊心を回復するのに役立つので、彼の救護施設は「品位のある建物」と呼ばれています。

坂は、建物が一時的なものだからといって見栄えはよくなくてもいいというわけではない、と言います。

「避難した人々は精神的にも身体的にも傷ついています。」と彼は説明します。

「彼らは素敵な場所にいなければなりません。 彼らは美しいものを見ることが非常に重要だと思います。」

3.11で生き残ったある男性は、家族が宮城の坂の魅力的な住宅に引っ越した後、10歳の娘が笑顔で元気だ、と語りました。

「震災以来、はじめて本当に安堵感を持てた瞬間でした」とその男性は言いました。

宮城の住宅は一時施設の予定ですが、そこに暮らす人の中には、ずっとそこで暮らしたいと思うほど気に入っている人もいます。


Section 4

2014年、坂はプリツカー賞を受賞しました。

プリツカー賞を建築界のノーベル賞と呼ぶ人もいます。

選考委員のひとりは、第一級の建築家が被災者にすべてを捧げていることはすばらしいことだ、と言いました。

彼の建築は、被災者の日常のニーズだけでなく美のニーズにも貢献しています。

坂は、「この賞は、私がやっていることを続けさせることを奨励しています。 変わらないで。成長してみてください。」と言います。

彼にとって「成長」とはいちばん高いビルを作ることでもいちばん大きなオフィスを持つことでもありません。

実際、彼はもっと小さなオフィスがいい、と言います。

彼は自分のオフィスより被災地で過ごすもっと多くの時間を欲しています。

坂は、災害救援活動であれ、新しい建物のデザインであれ、自分が成長する方策をいつも探っているように見えます。

人は肉体の安息所だけでなく精神の美や尊厳も必要だ、と建築家は自覚せねばならない、と彼は信じています。

安息と尊厳を建てる不断の努力を通じて、坂はこの世界をよりよいものに変えているのです。