わやくの部屋

CROWN 1 -Lesson 5

Food Bank フードバンク

夢を持つことで生きていける。困難を克服することで生きるに足る人生となる。
――メアリー・タイラー・ムーア

フードバンクは会社やスーパーや農家から余った食べ物を集めて、支援の必要な人を助ける福祉団体にその食べ物を渡しています。チャールズ・E・マクジルトンは日本で最初のフードバンクのセカンド・ハーベスト・ジャパン(2HJ)をスタートさせました。

Section 1

1991年、私はたくさんの日雇い労働者がいた東京の一部に住む大学の交換留学生でした。

景気が悪くなると、彼らは仕事を見つけることがでませんでした。

私は彼らが路上で寝ているのをよく見かけました。

彼らの生活は楽ではありませんでした。

多くの男性がアルコール依存症になりました。

飲酒をやめることは簡単ではありませんが、人は自分の生活を変えることができます。遅すぎるということは決してありません。

数年後、私は自助センターを作ることを決意しました。

適切な「ツール」(住所、電話番号、物品を保管したり風呂に入ったりする場所)がなければ、路上生活から脱することは困難です。

このセンターは自ら努力する人々を支援するための「ツール」を与えようとするものでした。

しかし 1997年になるころには、私は自分の内側になにか欠けているものがあることに気づきました。

私はホームレスの問題について、「頭の知識」はたくさん持っていましたが、「心の知識」が欠けていたのです。



Section 2

1997年1月から1998年4月まで、私は隅田川沿いで段ボールハウスに住みました。

この経験が私を変えました。

私はホームレスの人の目で世界を見ました。

私はホームレスを経験し、毎日おなかをすかせた人々を目にしました。

驚いたことに、私の近所の人たちは希望を失ってはいませんでした。

彼らはいろいろと私を助けてくれました。

多くの人が空き缶を回収するなど、なんらかの仕事を持っていました。

私は自分がどこに住んでいるか同僚たちに言わずに、日本の企業で働き続けていました。

私は毎日、人はみな人なのだということに気づくことができました。会社で働いていようと路上生活をしていようと、そんなことは問題ではありません。

政府の報告によると、日本人の15パーセント以上が相対的貧困線以下で生活しています。

高齢者に限れば、この数字は20パーセントを超えます。

日本のおおよそ230万人の人が、日々の安全で栄養のある食事を充分に得られていません。

私はふたりの小さな子どもを持つ、1人のシングルマザーから電話を受けたことを覚えています。

その日彼女は、下の子どもが食べられるように、上の子どもに食事をあきらめるよう頼まなければなりませんでした。

このようなことが、日本でも毎日起きています。

Section 3

最初のフードバンクは1967年にアメリカ合衆国ではじまりました。

日本では私たちが2000年に活動を開始し、2002年3月にセカンド・ハーベスト・ジャパンと呼ばれるNPO(非営利団体)になりました。

私たちの名称は余った食品を「収穫する」という考えに由来しています。

私たちは食べ物を必要とする人にそれを与えるだけでなく、企業が資金を節約する手助けもします。

2010年には5億円以上の食料を「収穫」しました。

企業は、売ることのできない食料を処分しなくてもすんだため、8000万円を節約しました。

信用は、私たちの仕事ではとても重要です。

信用があれば、食料と財政的支援はあとから自然についてきます。

私たちは企業へ行って「私たちに食料か資金をいただけませんか」とお願いすることは決してしません。

私たちは彼らを対等なパートナーだと考えています。

私たちは彼らに自分たちの活動について説明し、「なにか、私たちがいっしょにできることがありますか」と聞くのです。

NPOは日本ではまだ新しい機構です。

NPOが成長して、より熟練するにつれて、人々はNPOが社会の中でもっと大きな役割を果たすことができるのだということを理解するでしょう。

なにかよいことをしたいとただ願望するだけでは充分ではありません。

重要なことは、どのようにして自分たちのNPOを運営するかということです。

セカンドハーベスト・ジャパンはほかに類を見ない組織です。

というのも、ビジネスと福祉の両方を扱っているからです。


Section 4

人を「助けること」は易しいことではありません。

私たちが「お手伝いしましょうか」と言うとき、時には間違ったメッセージを送ってしまうことがあります。

よかれと思って言っているのですが、「あなたはよい状態ではありません。変わることが必要です」というメッセージを送ることになってしまうこともあるからです。

こういうときは次のように考えるほうがよいと思います。つまり、「あなたの自転車はパンクしていますね。

もし使いたければ、私はいくつかの道具とパッチを持っています。

また、もしだれかいっしょにいてほしいのなら、あなたが自転車を修理する間、私は帰らずにここにいることもできます」

これは私が隅田川沿いでの経験から学んだことです。

私の仕事は、どんな社会に私が住みたいのかについての「投票」です。

食料は「道具」でもあるのです。

私は、必要とする人にこうした「ツール」をもたらす方法がある社会に住みたいと思います。

私は自分の仕事を、人の「手助けをすること」だとは思っていません。

むしろ、余剰食品とそれを使うことができる人たちとをうまく引きあわせることだと思っています。

私はこのような引き合わせに情熱を燃やしています。

この引き合わせ作業が私の仕事のおもしろいところです。