わやくの部屋

PRO-VISION 2 -Lesson 6

The First Olympics
最初のオリンピック

Section 1

古代ギリシア・ローマ時代に、最初のオリンピックが1200年間続いたことを知っていましたか?

古代オリンピックは紀元前776年に個人短距離走に始まりました。

ギリシアの神々の王であるゼウス神に捧げられて、アテネ西方の都市オリンピアで、4年に1度開催されました。

競技や観客の数に変化はありましたが、それから12世紀の間、オリンピックは続きました。

なぜ古代のオリンピックはそのように長く続いたのでしょうか。

その当時、ギリシア世界は常に戦争状態にあり1000以上の都市国家に分かれていました。

戦争で戦う男たちのほとんどは農民であり、戦闘は主に農閑期 (農作業のひまな時期)に起こっていました。

この時期、つまり8月の終わり、小麦の収穫の後はオリンピックが開かれるときでもありました。

オリンピックの期間中、都市国家間で選手と観客の安全な移動を保障する休戦協定に合意しました。

この特別な機会に、ギリシア世界の人びとは戦闘を小休止して、同じ血が流れ、言語と宗教と習慣を皆が共有しているという自覚を持ったものでした。

このようにして、オリンピックの祭典は、すべての古代ギリシアの人びとが楽しむことができる催し物(イベント)になりました。

言い換えれば、古代のオリンピックがこんなにも長い間存続した理由は、「我々はみなギリシア人である」という強い思いでした。

Section 2

では古代オリンピックとはどのようなものだったのでしょうか。

ギリシア世界全土から集まった4万を超える興奮した観衆でいっぱいになったオリンピアの街を想像してみてください。

オリンピックの祭典は開会式で始まりました。

今日のオリンピックのような聖火リレーはありませんでした。

その代わりに、ゼウス神像の前で選手や審判が宣誓し、聖火が灯されました。

すべての競技が、今日私たちがテレビで見ているものと同じというわけではありませんでした。

最初の競技は戦車競走です。

競技場の真ん中に360メートルほど間隔をあけた2本の柱があり、4馬の戦車が十二周その周りを回りました。

コースのどちらかの端にある180度の旋回は特に危険であり、ロールオーバーと衝突が頻繁に発生しました。

観客は彼らを見たいと思って近くの席に行くでしょう。

次のプログラムは円盤投げでしたが、これは今日知っているスポーツとは異なりました。

競技者は、台座に立ち、そこで旋回することなく円盤を投げたとされています。

勝者がオリンピック記録の半分以下の30メートルを投げたことを示す古代記録があります。

古代オリンピックのもう一つのハイライトは,スタディオン走(短距離走)でした。

これは1スタディオン、すなわち約192メートルのまっすぐなトラックを走る短距離走です。

この競技は今日私たちになじみがあるものと基本的に同じですが、一つ違いがありました。

それは選手が裸で走ったことです。

Section 3

2世紀半ばに、ローマ帝国のもとで古代オリンピックの人気は絶頂に達しました。

兆しが見られ、3世紀半ばから状況は悪い方向に向かいました。

なぜあれほど長い輝かしい時代の後に、オリンピックは衰退したのでしょうか。

当時、パクス・ロマーナ、すなわちローマの平和は、帝国に侵略者がやって来て、崩壊し始めていました。

オリンピアの街自体も地震と洪水によって破壊されました。

興隆によって、古来のゼウス信仰も魅力を失ってしまいました。

競技会はA.D.393年についに廃止され、古代オリンピックの長い歴史は終焉を迎えました。

さらなる理由を挙げる人もいます。

オリンピックそのものが徐々に堕落したことです。

名誉と、勝利に対する物質的な見返りを強く望むことが、贈収賄につながりました。

人びとがオリンピックを娯楽でしかないとみなすようになってしまったことで、その問題はほとんど改善しませんでした。

古代オリンピックについてのある研究者はこの衰退の過程を次のように述べます。

「理想がなければ、オリンピックはほかの競技大会とほとんど違わなかった。 (オリンピックは)聖なる祭典ではなく、単なるショーとなってしまった。そして、もし単なるショーであれば、開催し続ける理由はなかった。」

Section 4

こうして人びとの生活からオリンピックが消えましたが、忘れ去られはしませんでした。

19世紀、古代ギリシアはヨーロッパ文明の発祥の地として大いに崇拝されました。

例えば、英国の詩人シェリーは1821年にこう書いています。

「我々はみなギリシア人である。我々の法律、文学、宗教、芸術の起源はみなギリシアにある」

このような時代の雰囲気の中で,、フランス人のピエール・ド・クーベルタン男爵が夢に描いたのは、スポーツを通じて国際親善の理想を促進する方法として、古代オリンピックの精神をよみがえらせることでした。

彼の願いが実現したのは、1894年6月23日、パリ国際アスレチック・コングレスが、満場一致で古代オリンピックの復興を宣言したときでした。

こうして近代オリンピック運動が誕生したのです。

それは「我々はみなギリシア人である」という理念のもとで行われた、新しいオリンピックでした。

最初の近代オリンピックは1896年に、(古代)オリンピックが生誕した国、ギリシアのアテネで開催されました。

しかしこのグローバルな時代に、近代オリンピックを生み出したギリシアの遺産を共有しているという考えは、もはやかつてのような魅力を持ってはいません。

オリンピックの精神とともに競技の興奮を未来の世代に受け渡していくためには、別の理想が必要とされます。

それは「私たちはみなこの地球の住民である」という認識です。

5 つの重なり合う輪が五大陸を意味するオリンピックのシンボルに表現されるような、共通の人間性を認識する必要があるのです.