わやくの部屋

PRO-VISION 2 -Lesson 10

The Underground Reporters
地下リポーターたち

The last of human freedoms ―― the ability to choose one’s attitude in a given set of circumstances. ―― Viktor Frankl

人間に残された最後の自由とは――与えられた状況の中で自分の態度を選び取る能力である(→どのような状況になろうとも、人間にはひとつだけ自由が残されている。それは、どう行動するかだ)。――ヴィクトール・フランクル

Section 1

1940年 8月
夏でした。ブデホヴィーツェに住むユダヤ人の少年少女は、毎日、川沿いの遊び場でゲームをして遊んだものでした。遊びに集まることを許されていた(→集まって遊べる)、たった一つの場所でした。15歳の少年ルーダは、自分たちの自由を規制するナチの法律にイライラしていました。すべての不正な規則に黙って従うのが嫌だったのです。規則をうまくかいくぐるためにできることが何かあるに違いありません。

「そうだ! 新聞を作ってみようじゃないか?」

新聞ならユダヤ人の子供と十代の若者のきずなを深めてくれる、創造性と想像力を発揮させてくれる、と思いました。

ルーダはタイプライターの前に座って、書き始めました。

「僕は僕たちの遊び場に、毎日、来てくれるみんなのことを少し話したいんだ。みんなについて気の利いた話も少し付け足しちゃいたいんだ。

カレルは遊び場の恐怖だよ。こいつってみんなに大声でどなって、脅してばかりなんだ。

イレーナは、自分よりちっちゃな子からおっきな子まで、女の子みんなのお母さんみたくなってきたね」

ルーダが全員についてコメントの一覧表を作り上げたとき、この新聞をクレピって名づけました――チェコ語で「ゴシップ・噂話」です。クレピはたったの3ページで、総発行部数は1部でした。でも、みんな、すっごくワクワクして、クレピを手にしたいって思いました。「お前、次の新聞も作んなきゃな」と、子どもたちのうちの1人が言いました。

ルーダは、数人の友達からなるレポート・チームを編成しました。次の新聞に何を載せたらいいのか話し合いました。

「クレピにはスポーツ欄がなきゃね。みんなこの町でのサッカーの試合について読むのに興味あっから」と、レポーターの1人が提案しました。

「やっぱ、詩かな」と、もう1人が付け加えました。

第2号は創刊号よりもさらに大成功でした。みんなが詩をほめ、スポーツ記事にワクワクしました。今では、大人でさえクレピを読みたいって思いました。だから、クレピ2号はユダヤ人社会全体に広まっていきました。

Section 2

1940年 秋
ユダヤ人が町の通りを歩くのはますます危険になってきていました。逮捕された人も大勢いました。ルーダは身の回りの危険を意識せざるを得ませんでしたが、クレピが勇気のもとだと信じていました。

ある日、クレピの読者に訴えかけました。「みんなが一人残らずレポーターになってくれさえすれば、クレピを出し続けられるんだ。書きたいことを何でも書いてよ。家族のことだって、好きな男の子のことだって、好きな女の子のことだって書いていいんだよ。絵とか、漫画を描いたっていいんだ」

続いてこう記しました。「毎日、僕たちがやっていいことと、しちゃいけないことの規則が新しくなってるね。でもね、制限できないことが1つあるんだ。それは僕たちの精神だよ。だぁれも僕たちが考えることを禁止できないんだよ。だから、みんなには頭を使って、何か書いてほしいんだ。 誰にでも何か言わなきゃいけない大事なことがあるに違いないことはわかってるんだ」

(みんなの)反応はすごいものでした。若者たちは、みんな熱心に記事や詩や絵をかいて投稿しました。クレピに自分の作品が載っているのを見ると、みんなの気持ちは誇りで膨らみました。絶え間なく恐怖を感じているにもかかわらず、自由を取り戻すために書きました。1つの詩は、強制労働をしている最中のユダヤ人のグループを描きました。


AFTER A SNOWSTORM IN JANUARY
1月の吹雪の後で

今日、ユダヤ人は働きに出かけた
疲れてそうだけど、雪かきした
見られて恥ずいと思った人もいた
仕事に誇りを持とう
僕らの強さをあいつらに見せつけよう


クレピは、町のユダヤ人みんなの気持ちをひとつにまとめたのです。クレピのおかげで尊厳と目的が生まれました。自由のために戦うという目的意識です。

Section 3

1941年 9月
状況は日一日と、ますます悪化していきました。町のユダヤ人たちは今では、ほとんどすべての通りを出歩いたり、お店に入ったりすることが禁止されました。子供たちの遊び場さえも閉鎖されました。不吉なうわさが広まっていました。ヨーロッパ全土で収容所がユダヤ人を収容するために作られている(→ヨーロッパの至る所でユダヤ人を入れるための収容所が建てられている)、と。

ルーダは、みんなを脅す邪悪な運命に向かい合う決意を固めました。取材班の残りのメンバーと会議を開きました。ルーダは、ナチスに反対して堂々と意見を発表する手段としてクレピを活用すべきだと主張しました。

取材班の男の子の1人カーリーがこう言いました。「僕は賛成できないな。もし僕たちがナチスに抵抗することを大っぴらにしたら、新聞が全然なくなっちゃうよ。クレピは軽い話題に特化しなきゃダメだよ」

もう1人の男の子レイナは、きっぱりとこう言いました。「でもね、わかんないかな。クレピそれ自体が抵抗の形なんだよ。僕たちが何を書こうがほとんど問題じゃないんだよ。僕たちが新聞を作って、新聞を配布するという(→新聞が読まれるって)事実だけがとても大切なことなんだよ」

この話し合いでは結論は出ませんでした。しかし、1つのことは明らかでした。世界は嫌な場所になってしまったということです。町に残された、楽しみに待ち望まれているたった一つのものはクレピでした(→クレピだけが町に残された唯一の楽しみでした)。

しかし、クレピを発行し続けることは不可能だと判明しました。物資は日増しに乏しくなって行きました。クレピを作るのに必要な紙を買う場所さえ、もうどこにも残されていませんでした。ある日、レイナは、第22号を届けにルーダの家にやって来ました。
レイナは「僕たち、もうこれ以上は無理だよ。会うことだって今じゃ危険なんだから。記事のために情報を集めるのって無理だよ」と言いました。

ルーダは沈んだ気持ちで、22号を受け取りました。終刊号になることがわかっていました。ルーダを一番悲しませたのは、クレピが表現していた自由を失うことでした。

「もし僕たちに何か起こるとしたら、このコレクションは一緒にないと(→クレピは全部まとめて一緒にしておかなきゃ)いけないね」とレイナは言いました。

ルーダはうなずいて、終刊号を(積み上げられたクレピの)束の一番上に置きました。

Section 4

1942年 2月
1942年2月初めに、町のユダヤ人全員が最も恐れていた知らせが届きました。全員が収容所に送られることになりました。

ルーダも出発の準備をしなければいけませんでした。荷造りをしているとき、(町に)いない間、全部で22号ある新聞をどこに安全に保管できるのか思案しました。何が(この先)自分に起こるのかまったくわからなかったので、一緒に持って行くことはできませんでした。一方、もし新聞を家に残しておいたら、なくなってしまうかもしれません。クレピはただの新聞以上(の存在)だったのです。クレピは、制作に携わったたくさんのユダヤ人の少年少女の生活と夢の貴重な記録だったのです。クレピ(の記事)を書くことによって、身の回りの暗く沈んだ様子(=暗鬱さ)を明るくしようとし、いつか平和が再び訪れてくるという希望(の火)を灯し続けようとしたのです。

最後には、新聞を保管するいい場所を考えつきました。無事、戦争を乗り越えてくれるよう祈ることしかできませんでした。クレピにお別れを告げるのは、親しい友にお別れを言うようなものでした。

4月、町のユダヤ人全員は、汽車で収容所に送られました。

1945年戦争が終わるまでに、600万人以上のユダヤ人が命を失いました。ブデホヴィーツェの子供と(十代の)若者たちは、ほとんど誰も生き残っていませんでした。ルーダはどう(なった)かと言うと、ある日、収容所で働いているときに、あるドイツ人兵士が、ルーダの来ているコートをよこせと命じました。ルーダは拒否しました。その場で撃ち殺されました。息をひきとるまで、自らの権利と尊厳のために戦ったのです。

クレピの全22号は、戦争を無事にやり過ごしました。ルーダは、安全な保管場所としてキリスト教徒の友人にクレピを預けていたのでした。戦争後、クレピは、奇跡的に生き延びていたルーダの妹に返還されました。クレピは、今は、プラハにあるユダヤ博物館で展示されています。