わやくの部屋

CROWN 3 -Lesson 6

The Magic of Reality
現実の魔法


リチャード・ドーキンスさんはイギリスの科学者であり、著述家です。ドーキンスさんは数冊の人気の科学本を書いていて、テレビやラジオに定期的に出演しています。私たちには、特に若い人たちには、科学が真実と取り組む方法を理解し、科学が神話や超自然的なものとはどのように異なっているのかを学ぶ必要があると、ドーキンスさんは強く感じています。ドーキンスさんの新刊『現実の魔法』は科学の世界に関するもので、読者に科学者と同じように考えることを教えています。

『古事記』で、日食は太陽の女神(天照大神)が洞窟(天岩戸)に隠れることが原因で起こると、私たちは学びます。虹は神々が地上に架ける橋だと信じている人たちもいました。こうしたものは、素晴らしい神秘的なお話です。しかし、他の種類の魔法もあります。こうした疑問(=なぜ日食は起こるのか? どのようにして虹は出るのか?)に対する本当の答えを見つけることにあります。それが現実の魔法、すなわち科学なのです。

ドーキンス教授が、ご自身の言葉で話しているのを聞いてみましょう。

Section 1

最近では、だれも魔法の存在を信じません。かぼちゃは『シンデレラ』の中でしか馬車に変わらないということは、誰でも知っています。ウサギが,見たところ空っぽのように思える帽子の中から出てくるのは、奇術によってだけだ、ということをみんな知っています。しかし、まだ真剣に受け止められている「奇跡」がいくつかあります。すなわち、たくさんの人が信じている超自然的な出来事のお話です。超自然的な出来事は何らかの点で本当なのでしょうか? あるいは、科学的な観点からすると、単に真実ではないものなのでしょうか? 現代の科学者たちは、何か超自然的な物と受けとめられているものにどのように対処するのでしょうか?

一部の人にとっては奇跡の1例になる、ある事例を検討することから始めましょう。霊能力を持っていると言われる一人の人物が、「思念の力」によって腕時計を再スタートさせられると主張しました。この人物は、テレビを見ている人に、家の中からどんなものでもいいから古い壊れた腕時計を取って来て、この時計を手でしっかり握るようにお願いしました。その間、この人は思念の力で遠く離れてその古い動かない腕時計が動くように努力しました。ほとんどすぐに、スタジオの電話が鳴ることでしょう。そして、電話の向こう側の声の主は、自分の腕時計が動き始めた、と驚いて知らせることでしょう。この出来事全体に対する君の反応はどのようなものでしょうか? その人物が持っていると主張する超自然的な能力に感動するでしょうか? あるいは、何かおかしなことになっているぞと思って、この事例に疑いの態度をとるでしょうか?

この事例では、この見たところどうも奇妙に思える出来事に、合理的な説明を簡単に与えることができます。デジタル式の腕時計に当てはまる確率はおそらく低くなるでしょうが、しかし、腕時計がぜんまいを持っていた時代では、動かない腕時計を単に手に取るだけで、突然の動きによっててん輪が動き始めて、再び動き始めることがあり得るのでした。もしその腕時計が温められれば、この再始動はもっと簡単に起こりえますし、手にした人の手からの熱は、再始動を引き起こすには十分でしょう。これはそんなによくは起こりませんが、全国で1万人いる場合には、頻繁に起こる必要はありません。1万人が動かない腕時計を手に取って、それから暖かい手で腕時計を握りしめるのですから。腕時計の持ち主がとても興奮しながら番組に電話で知らせてくれて、テレビを見ている人みんなを感動させるためには、1万個の腕時計のうちたった1個が動かなければいけません(→1個が動くだけでいいのです)。動き出さなかった9,999個の腕時計については何も聞かないのです(から)。

Section 2

18世紀の有名なスコットランド人思索家デイビッド・ヒュームは、奇跡について賢明な主張をしました。奇跡を自然法則を打ち破るものとして定義することから始めました。思念の力だけで腕時計を止めたり動かしたりすることや、あるいは、カエルを王子様に変えることは、自然の法則を打ち破る良い例でしょう。そのような奇跡は科学にとっては実際にとても困るものでしょう。もし本当に起こるものであれば、ひどく心が乱れるものでしょう! そこで、私たちは奇跡の話にどのように反応すべきなのでしょうか? これが、ヒュームが取り組んだ問題でした。そして、ヒュームの答えは、先にも言いましたように賢明な論点でした。

ヒュームの実際の言葉をお知りになりたいなら、次のようなものです。

「証言が、その証言が間違っているということが、証言が立証しようとする事実よりももっと信じられない(=ウソっぽい)ような種類のものではない限りは、どのような証言も、奇跡を立証するには十分ではない」(訳者注:とってもわかりにくいですねぇ。噛み砕いて訳してみてもこのざまです。ドーキンズ君は諸君の脳ミソではヒュームちゃんの言葉は理解不能だろうと見越して、挑戦状の意味を込めて、原文を提示しています。これをそのまま日本語に直して、「どんな証言も、その証言が偽りであることはそれが立証しようとしている事実よりももっと奇跡的であるという種類のものでない限り、奇跡を確実に生じさせるのには十分ではない」としても、何のコッチャ~ですよね? これではドーキンズ君の挑戦に敗れてることになります。ではちょっとブットンダ日本語訳でもう少しわかり訳してみます――「次の点を満たしていないと、奇跡Xが本当に起こったということを立証できません。証言Yが間違っている可能性Aと、証言Yが立証しようとしている事実Xが正しい可能性Bを比べてみて、AよりもBの方が高くなければ、Xが正しいとは立証できません」)

ヒュームのポイントを他の言葉で言い換えてみましょう。もしジョンが奇跡が起きたと言うとすれば、君はそれがジョンが嘘をついていたり(あるいは、間違っていたり)する方がずっと信じられない(=ウソっぽい)場合に限り、君はその発言を信じるでしょう。例えば、君は「ジョンを命をかけて信じるよ、だってジョンはウソなんかつきっこないし、もしジョンがウソをついてるとしたら、それこそ奇跡なんだから」と言うかもしれません。それはそれでいいでしょう。しかし、ヒュームは次のようなことを言うでしょう。「ジョンが嘘をつくことがいかに可能性の低いことであろうとも、ジョンが見たと言い張る奇跡よりも本当に可能性が低いのだろうか?」 ジョンが雌牛が月を飛び越えるのを見たと言い張る場合を考えてみましょう。ジョンがどんなに正直であっても、ジョンが嘘をついていると考える方が、実際に雌牛が月を飛び越えることよりも信じられやすい(=本当っぽい)でしょう。ですから、ジョンが嘘をついている、あるいは、間違っているという説明の方を好むことになるでしょう。

Section 3

実際に起こったことを取り上げてみましょう。1917年、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトという名前のイギリスの2人の若いいとこが、妖精が写っていると2人が言う写真を撮りました。現代の目からすると、その写真は明らかな偽物ですが、写真がまだ新しいものだった当時では、有名なシャーロックホームズの創作者の偉大な作家アーサー・コナン・ドイル卿でさえも、その写真にだまされました。とても多くの人たちが同じようにだまされました。何年も経ってから、フランシスとエルシーがお年寄りになって、白状して、(写真に写っていた)「妖精」は紙人形に他ならなかったと認めました。しかし、ヒュームと同じように考えて、なぜコナン・ドイルも他の人たちもそのトリックにだまされるような馬鹿なことはすべきではなかったのか解明してみましょう。もし本当だとしたら、次の2つの可能性のうちどちらの方がより信じられない(=ウソっぽい)と考えますか?

1. 本当に妖精がいて、花の中を飛び回っていた。
 2. エルシーとフランシスが写真をゴマ化していた。

勝負にならないですよね? 子供はいつだってごっこ遊びをするものです。しかも、ごっこ遊びをするのってとっても簡単です。たとえエルシーとフランシスをとてもよく知っていて、人をからかうことを夢みることは絶対にないような、いつも人をすぐに信じてしまう女の子だと感じていたとしても、すなわち、たとえ2人が嘘をついているなんて奇跡だと思えるようだとしても、ヒュームなら何と言うのでしょうか? 2人が嘘をついているという「奇跡」は、妖精が存在するという「奇跡」よりも小さな奇跡だ(→信じられやすい(=本当っぽい))、とヒュームは言うことでしょう。

私たちには理解できないようなことが何か起きて、トリックなのかウソなのかわからないと仮定しましょう。これは超自然的な出来事だと結論付けることは、そもそも正しいのでしょうか? いいえ、正しくはありません! 超自然的な出来事だという結論を出すと、それ以上の議論も調査もおしまいになってしまうことでしょう。

Section 4

これから、超自然的な出来事だと(して処理)する考えに取り組んで、なぜ超自然的な出来事だとする考えが、私たちの周りの世界や宇宙の中で目にするものを本当にうまく説明出来ないのか、を説明したいと思います。実際、何かある出来事を超自然的な手法で説明できると言い張ることは(=世にあまたいる「超常現象研究家」の方たちがよくなさる主張は本来)、まったく説明しないことではありませんし、さらには、今まで説明されているすべての可能性を排除することでもありません。なぜ私はそう言うのでしょうか? 理由は「超自然的な」物は何でも、名前からして自然な説明を超越していなければいけないからです。超自然的な物は科学の範囲を超え、過去400年かそこらにわたって享受してきている知識の膨大な進歩をもたらしてきている科学的な実験と検証の方法の範囲を超えていなければいけません。何かが超自然的に起きたと言うことは、「私たちにはそれが理解できない」というだけのことではなく、「私たちはそれを絶対に理解できないでしょうから、理解しようとさえしない」と表明することにもなるのです。

科学は、まさに正反対の取り組み方をします。科学は、これまでのところ、すべてを説明できるわけではないという無能力さの上で繁栄しています。そして、少しずつ真実に近づいて行くために、科学は問いを立て、可能な仮説を構築し、仮説を検証し続ける拍車として、この無能力さを使います。もし何か現在の現実を理解している内容に反することが起こったとしたら、科学者はその出来事をチャレンジ(難しいけれどやりがいのある課題)だと見なすでしょう。科学者は現在の仮説を捨て去るか、あるいは少なくとも現在の仮説を変更することでしょう。私たちが本当に真実であるものにドンドン近づいて行くのは、まさにそのような変更と、変更に続く検証を通してのことなのですから。

奇跡、魔法、神話は楽しいものです。しかし、真実は真実なりの魔法を持っています。実際に、言葉の一番よい一番興奮させてくれる意味で、真実は、どんな神話や奇跡よりも、神秘的です。科学は科学自体の魔法を持っています。現実の魔法です。科学は超自然的でもトリックでもなく、簡単に言うと、素晴らしいものです。素晴らしくて現実なのです。現実だからこそ素晴らしいのです。