わやくの部屋

CROWN 3 -Lesson 10

Stay Hungry, Stay Foolish
ハングリーでいよう、おバカでいよう


スティーブ・ジョブズは1955年2月24日に生まれ、カリフォルニアのシリコンバレーで育ちました。子供の頃、ジョブズは家の車庫でお父さんと電子機器をいじっていたものでした。
ジョブズは自分の人生で何を本当にしたいのかわかりませんでした。ジョブズはリード大学で2年を過ごしました。禅に興味を持ち始めました。精神的な悟りを探して、インドに旅をしたことさえありました。
ジョブズは1976年、スティーブ・ウォズニアックとともにアップル・コンピューターを始めました。アップルの製品は現代の科学技術の標準になりました。
2005年6月、スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学で卒業スピーチを行いました。ジョブズは3つの話をしました。点をつなぐことと、愛と敗北と、生と死についてです。
2011年10月、スティーブ・ジョブズは56歳で死にました。

Section 1

世界で一番素晴らしい大学の1つの(→世界でも屈指の大学の)卒業式に、今日、みなさんと同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。本当のことを言うと、今回が大学の卒業に今までで一番近い経験です。今日は人生から学んだ3つのことをお話ししたいと思っています。それだけです。大したことではありません。たった3つの話です。

最初の話は点をつなぐことについてです。

私は、リード大学を最初の半年で中退しました。でも、それからも、本当に大学を去る前に、あと18か月くらい大学構内に留まっていました。

人生で何をしたいのか、(人生の目標を)見いだすために大学がどんなふうに役立つのかまったくわからなかったのです。そして、両親がすべての生活を切りつめてためたお金全部をここ・リード大学で使っている最中だったのです。ですから大学を辞めることにしました。辞めたって、すべてはうまく行くと信じることにしたんです。当時は心細かったのですが、今、振り返ってみると、今までで一番いい決断の1つでした。中退した瞬間、つまらない必修の授業を受けるのはやめ、面白そうな講義には何にでもふらりと立ち寄り始められました(→面白そうな講義は何でも聴講しはじめられたのです)。

当時のリード大学は、おそらくは国内で最高のカリグラフィー(文字芸術)の講義を(提供)していました。大学の構内の至る所に、どのポスターも、どの引き出しのどんな張り紙も美しく手書きされていました。私は中退し、普通の講義をとる必要がなかったので、どのようにしてきれいな手書き文字を書くのかを学ぶために、カリグラフィーの講義をとることにしました。こうしたものが、自分の人生で実際に何か役に立つなんて期待は、まったくありませんでした。でも10年後、最初のマッキントッシュ・コンピューターを設計しているときに、すべて蘇ってきたんです。そして、すべてマックに組み込みました。マッキントッシュは美しいフォント機能(表示・印刷の体裁・書体)を搭載した最初のコンピューターでした。もし中退していなかったら、あのカリグラフィーの講義にぶらりと立ち寄ったりはしていなかったことでしょうし、パソコンは、今のような素晴らしいフォント機能を持ってはいないことでしょう。もちろん、私が大学在学中に、将来のことを考えて点をつなぐことはできませんでした。でも、10年後に、振り返って見ると、とってもすごく明らかでした。

もう一度言います、将来のことを考えて点をつなぐことはできません。過去を振り返りながら点をつなぐことしかできません。ですから、どういうわけか、点は将来つながるもんだと信じなければいけません。何かを信じなければいけません――肝っ玉でも、運命でも、人生でも、何だってかまいません。こうした取り組み方で一度も失望したことはありませんし、私の人生をすっかり違ったものにしてくれています。

Section 2

2つ目の話は愛と敗北にまつわるお話です。

私は運が良かった――人生の早い時期にやりたいと熱烈に思ったものに気づいたのですから。20歳のとき、ウォズと私は、実家の車庫でアップルを始めました。熱心に働きました。10年で、アップルは車庫にいた私たち2人だけから、従業員4,000人を超える20億ドルの会社に成長したのです。私たちの一番素晴らしい創作品のマッキントッシュをちょうど1年前に発売したところで(→私たちの一番素晴らしい作品マッキントッシュをちょうど発表したところでした。その1年後に)、私はちょうど30歳になったばかりでした。このときです――アップルをクビになりました。ですから、30歳で、放り出されたんです。しかも、とても大っぴらに放り出されたんです(→世間のみんながクビになったことを知っていました)。私の大人になってからの全人生の中心であったもの(→私が大人になってからやった中心的な活動のすべて)を失ったんです。それはもうひどいもんでした。

数か月は何をやったらいいのかホントにわかりませんでした。私は正式な失敗者でした(→知れわたった落ちこぼれでした)。そして、シリコンバレーから逃げ出そうかとさえ考えました。でも何かがゆっくりとはっきりしてきはじめていたんです――自分がやってることをまだ愛していると気づきました。(アップルでの)出来事は、この愛しているという気持ちを少しも変えませんでした。私は拒絶されたのです。しかし、まだ愛していました。ですから、もう1回やり直すことにしたんです。

そのときにはわかりませんでしたが、クビになったことは私に起こる可能性のあったことの中で一番いいことだとわかりました。成功しているってことの重圧は、もう一度初心者の身軽さに取って代わられ(→今一度、初心者の身軽な状態へと変わり)、何事に関しても確信の持てない状態になったのです。このことで、重圧から解き放たれ、人生で一番創造的な時期の一つに入ることができました。

もし私がクビになっていなかったら、こうしたことは何一つ起こらなかっただろうと、とても確信しています。それはひどい味の薬でしたが、この患者(=ジョブズ本人)にはそういう苦い薬が必要だったと思います。時には、人生はレンガで頭をガツンと殴ってくるものです。信念を失わないことです。私を前進させ続けたものは(→私を突き動かし続けていたものは)、自分がしていることを愛しているという事実だと確信しています。みなさんは自分で愛せるものを見つけなければいけません。そして、あれは君の愛する人たちについて真実であるのと同じくらい、君の仕事についても真実です(→愛せるものを発見することの重要性は、愛する人についても当てはまりますし、同じように仕事についても当てはまります)。仕事は人生の大きな部分を占めるでしょうから、本当に満足できるたった一つの方法は、素晴らしい仕事だと信じられるようなことをすることです。そして、素晴らしい仕事ができるたった一つの方法は、自分がやっていることを愛すことです。もしまだ見つかっていないなら、探し続けてください。落ち着いてしまわないでください。心に関するすべての問題(=恋愛等)と同じように、見つかれば、(必ずすぐに)わかるものです。そして、どのような立派な関係とも同じように(→いかなる素敵な恋愛と同じように)、年月を経るとますますよくなっていくのです。ですから、見つかるまで探し続けましょう。落ち着いてしまわないでください。

Section 3

3つ目の話は死についてです。

17歳のとき、次のような格言を読みました。「もし毎日をその日が最後の日だと思って生きれば、ある日、確実に君が正しくなるだろう(→いつかきっとその通りになるだろう)」 とても印象に残り、それ以来ここ33年間ずっと、毎朝、鏡を見て自問してきています――「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを(それでも)やりたいのか?」 そして、その答えが長い間(→何日も続けて)“No”だったらいつでも、何かを変える必要があるとわかるのです。

自分はもうすぐ死ぬんだということを思い出すことは、人生の大きな選択をするのに役立つ、今まで出会ったうちで一番大切な道具です。ほとんどすべてのものは――すべての(種類の)プライドとか、恥をかくかもっていう恐れとか、失敗したらっていう恐れとか――こうしたものは死を前にすれば、本当に大切なものだけを残して、ふっ飛んじゃうんです。自分は死ぬんだということを覚えておくことは、失うものがあると考える落とし穴を避けるために私が知っている一番いい方法です。みなさんはすでに裸なのです。心の欲するところに従わない理由はありません。

1年くらい前に、かかりつけのお医者さんに、膵臓ガンだと告げられました。膵臓って何なのかすら知らなかったのです。これは治らないタイプのガンなのはほぼ確実で、3か月から半年より長くは生きられないと覚悟すべきだと、医師たちに告げられました。お医者さんは家に帰って、いろんなことを整理するように助言してくれました。死ぬ準備をすべきだという意味でした。死ぬ準備とは、今後10年かけて子供たちに伝えようと思っていたことを、わずか数カ月で全部、子供たちに伝えるように努力することを意味しています。家族にとって、それができるだけ簡単であるように(→自分の死ができるだけ気楽に受けとめられるように)、確実にすべてのものに決着をつけておくっていう意味です。さよならって言うことを意味しています。

私は死ぬんだという思いを抱きながら、私はその日1日ずっと過ごしました。その日の夜になって、他の検査を受けました。手術で治るタイプの、とてもまれなガンの形をしていることがわかりました。私は手術を受け、今は元気です。

これは私が死に直面した中で一番近いものでした。そして、今後、数十年の間は一番近いものであってほしいと願っています。それを通って生きてきて(→死を乗り越えて生きていると)、(毎朝、鏡に向かって自問するときには)死が役に立つけれど、純粋に知的な概念でしかなかったときよりは、今、次のことをみなさんに、もう少し強い自信を持って言えます

――死にたいと思う人はどこにもいません。天国に行きたいと思っている人でさえも天国に行くために死にたいとは思はないのです。しかし、死は私たちみんなが共有する目的地です。死を逃れた人はいません。そして、あれは、それがそうあるべきようになっているのです(→死が万人に訪れるという事実は、そうでなければいけないことなのです)。死こそは、きっと生が発明したまさに最高のものなのです。死は生の変化要因です(→死が生に変化を引き起こす要因になるのです)。死は、古いものを追い出し、新しいもののために道を作るのです。今現在、新しいものとはみなさんですが、今からそう遠くはないいつか、みなさんは徐々に古いものになり、一掃されるのです。あまりにもドラマチックで申し訳ありませんが、紛れもない真実なのです。

みなさんの時間は限られています。ですから、誰か他の人の人生を生きて時間を無駄にしないでください。古い考え方によってわなにはまらないでください――他の人たちが考えたことの結果と共に生きることになります。他人の意見という雑音に自分の内なる声をかき消させないでください。そして一番大切なのは、自分の心と直観に従う勇気を持つことです。心と直観は、本当は何になりたいのかを、どういうわけかもう既に知っているのです。他のものすべては二の次です(→大切ではありません)。

若い頃に、『全地球カタログ』という名前の素晴らしい雑誌がありました。この雑誌は私の世代のバイブル(=必読書)の1冊でした。スチュアート・ブランドという名前の人物が、ここからそう遠くはないメンローパークで作っていました。スチュアートは、詩的なタッチで雑誌を生き生きさせていました。パソコンもデスクトップ印刷もない、1960年代後半のことでした。ですから、雑誌は全部タイプライターと、はさみと、小さなカメラで作られました。グーグルが登場する35年前に、雑誌のカタチをとったグーグルのようなものだったのです。高い理想に燃えていて、かっこいい道具や素晴らしい考えに満ちあふれていました。

スチュアートと彼のチームは『全地球カタログ』を何号か発行しました。そして、それから、自然の成り行きで、終刊号を出しました。1970年代半ばのことでした。私がみなさんの年齢でした。その雑誌の終刊号の裏表紙には、早朝の田舎の道路の写真がありました。もし皆さんが冒険心あふれるのであれば、ご自分がヒッチハイクしているのを見つけるような種類の田舎道です。この写真の下には「ハングリーでいよう、おバカでいよう」という言葉がありました。この言葉は、編集者たちが、筆をおくときの最後の別れのメッセージだったのです。ハングリーでいよう、おバカでいよう。そして、自分でもいつもそうありたいと望んできています。そして今、卒業して新しいことを始められるに際して、みなさんにそうあってほしいと願っています。

ハングリーでいよう、おバカでいよう。

みなさん、どうもありがとう。