わやくの部屋

CROWN 3 -Lesson 5

Only a Camera Lens between Us
私たちの間にあるのはカメラのレンズだけ

20世紀は悲惨な戦争の時代でした。何百万もの人が命を失いました。私たちは今、21世紀にいます。21世紀が平和と安定の時代であることを願っています。しかし、世界のいくつかの場所では、紛争に次ぐ紛争に見舞われてきています。

こうした紛争のほとんどは、軍人と、たいていは少年兵を含む民兵によって、小火器を使って戦われています。こうした紛争が終わると、社会に復帰する必要のある何十万人もの兵士がいるかもしれませんし、集められて破壊される必要のある数知れない武器が存在するかもしれません。これは、武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)の専門家の仕事です。

瀬谷ルミ子さんはDDRの専門家です。

Section 1

子供の頃、瀬谷さんはいつも「名もないその他大勢」にひかれていました。(心の中では、)外国はとても遠くにあるように思われ、自分はもちろん「なじみのない」もののように思えていました。瀬谷さんは地図帳を開いてアフリカを見つけたときには、とても興奮しました。

瀬谷さんが高校生のとき、ルワンダの人たちのための難民キャンプで死にかけている母親と小さな子供の写真を見て、ショックを受けました。自分にこう尋ねました――「おやつを食べながら写真を眺め、ここ日本で私は何をしているんだろう? 私とこの親子の間にはカメラのレンズしかないのに、日本での私の暮らしとこの親子の暮らしの間にはとても重大な違いがある」と考えました。もしその気になれば、(自分の力で)状況を変えられる国に住んでいました。それに反して、写真の難民たちは(自分の力で抗うことはできなくて)自らの苦しい立場を受け入れないわけにはいかなかったのです。

大学生のとき、瀬谷さんは世界の紛争について読み始めました(→調べ始めました)。専門家と話をして、ルワンダを訪れるためにパートで稼いだお金を貯めました。1997年、大学3年のときに、夢が実現しました。瀬谷さんはルワンダを訪れました。多数派のフツ族と少数派のツチ族の間の厳しい紛争によって打ちのめされていたルワンダの人たちの何か役に立てるかもしれないと思っていました。紛争中に80万から100万人の人が約3か月の間に殺害され、200万人が難民キャンプに逃げ込みました。

大量虐殺を生き抜いた家族のところに滞在中、瀬谷さんは何が起こったのかを突きとめようと努力しました。しかし、ほとんどの人は沈黙を守るだけでした。この人たちのトラウマは、まだ癒されてはいなかったのです。そして、部外者に自分たちの本当の気持ちをあらわにする気にはなれなかったのです。瀬谷さんは、自分はこの人たちの役に立てないんだと感じました。自分には技術も、知識も、経験もないと悟りました。こうしたものすべてが、ルワンダで出会ったような人たちの問題を解決するのに協力するためには(→問題解決に役立つためには)、絶対に必要です。

Section 2

大学4年のときに、大学院での研究のためにイギリスに行く計画を立てました。紛争解決の分野での専門領域を絞りこまなければいけないとわかっていました。本を読んだり、国際組織やNGOに関する情報をネットから集めたりすることに図書館で時間を費やしました。3か月たっても、情報をあまりにたくさん吸収しすぎて、何を専門にすればいいのか決められませんでした。

その時、突然、次の文が瀬谷さんの目に飛び込んできました――「紛争地域は元兵士と少年兵をどのようにして社会に復帰させればよいのかという問題に、今、直面している」 これだ!!と瀬谷さんは思いました。1999年、イギリスで瀬谷さんは大学院での研究を始めました。大学院生の間に、瀬谷さんは日本のNGOからルワンダで活動してほしいと依頼されました。瀬谷さんの任務の一部は、ルワンダの首都のキガリにNGOの事務所を開設することと、紛争でご主人を亡くした女性に職業訓練を提供するプロジェクトを立ち上げることでした。瀬谷さんは、20代と30代のシングルマザーがほとんどを占める10人の訓練生を選びました。そして、この訓練生たちに自立できるように裁縫と洋裁の技術を教えました。

このプロジェクトがほぼ終わる頃に、瀬谷さんはシエラレオネで進行中だったDDRプロジェクトのうわさを耳にしました。実際のDDRの進め方を自分の目で観察するために現地に行くことにしました。しかし、問題がありました。現地の状況を理解していて、何が問題なのか詳しく知っている人たちを見つけることにどのようにすれば取りかかれるのでしょうか(→見つける糸口をどのようにすれば手に入れられるのでしょうか)? もしこの状況をうまく切り抜けられなければ、紛争解決の専門家として活動するという夢を見るべきでさえないのです(→活動するなんて夢のまた夢です)。瀬谷さんは、くじけませんでした。何とか連絡を取って、戦争の被害者のためのキャンプと元少年兵たちのためのケアセンターを訪れることができました。DDRプロジェクトの最高責任者の一人にインタビューをすることもできました。

2001年に大学院での研究を終え、瀬谷さんは2002年1月にシエラレオネに再び戻って来ました。今度は、瀬谷さんは訪問者ではなく、国連のボランティア(=無償奉仕職員)としてでした。瀬谷さんの任務は、職業訓練を提供することによって、元兵士たちを社会復帰させることを推し進めることでした。いろんな国出身の1チーム15人のスタッフと一緒に活動し、瀬谷さんは徐々にDDRの専門的な知識を伸ばしていきました。

Section 3

停戦後には、やらなければいけない作業がまだたくさんあります。兵士たちは仕事もなく、住む家もなく、家族を養うお金もない状態で街に放り出されるかもしれません。元兵士が武装紛争に戻る危険が常にあります。元兵士たちは社会に戻り、生産的な生活を送ることができなければいけません。これが社会復帰です。

2003年から2005年まで、瀬谷さんはDDRのチームと一緒にアフガニスタンにいました。63,380人の兵士を武装解除させ、12,000以上もの重火器を集め、58,000近くの小火器を集めました。

2009年には、瀬谷さんはスーダンにいて、少年兵を含む傷つきやすい若者たちを支援する新しいプロジェクトを立ち上げる任務に取り組んでいました。こうした子供たちの信頼と、子供たちが帰って行く共同体の信頼を得なければいけないことを知っていました。信頼はDDRの活動では大切な役割を果たします。

瀬谷さんは、内戦で5年間、兵士だったマイケルという名前の男の子に出会いました。戦争が終わると、マイケルは警察に移送されました。当時、マイケルは学校に戻りたいと思っていました。しかし、着手の仕方を理解できませんでした(→でも、どうすればいいのかわかりませんでした)。瀬谷さんはマイケルの支援を申し出ましたが、マイケルは瀬谷さんを信頼していませんでした。あまりにも多くの人が守れない約束をしてきて(マイケルは人間不信になって)いたからでした。最初に、瀬谷さんはマイケルの信頼を得なければいけませんでした。それから、マイケルが学校に戻れるように許可してくれるようにマイケルの上官を説得しなければいけませんでした。瀬谷さんはこの両方の作業に成功しました。

マイケルの将来は難しく、不確かでしょう。マイケルは他の人を信頼することを学ばなければいけないでしょう。自分自身を信頼することを学ばなければいけないでしょう。瀬谷さんは、マイケルに今こそ自立するのよと言いました。「これは私の人生じゃないのよ。あなた自身の人生よ。これからは自分の力で考えなきゃだめよ」と言いました。マイケルは「何をすることになるのか(→どうすればいいのか)やっとわかったよ。これは僕の人生なんだ」と答えました。瀬谷ルミ子さんにとっての1つの小さな成功でした。

Section 4

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今では自身の経験と専門知識から、瀬谷さんは、知識と技術を持っているだけじゃ解決策を見つけるのには十分じゃないんだということを確信しています。君たちが既成の解決策を携えて戦争や紛争で荒廃した地域に行くことはまずないのです。解決策を見つけるためには、人々に直接会って、声を聞くことが必要だと、瀬谷さんは信じています。

また、瀬谷さんは、支援を与えすぎると、人々から自立しようという気持ちを奪うことになる可能性があると確信しています。瀬谷さんは言います。「私にできることは、人々に選択の自由(訳者注:1年生で学習した2HJでのチャ-ルズ君の発言を思い出しましょう。フードバンク創設者は、自転車がパンクして困っている人に、こう言うのです。「自転車がパンクしているのはわかります。お使いになりたいのなら、パンク修理キットを持っています。一緒にいてほしいのであれば、自転車を修理する間、すぐ隣りにいることもできます」と。何かをやってあげるのではなく、当人たちが自ら何かを選び取れるように、環境を整えてあげることが大切なようです)を作ってあげて、少しだけ支えてあげることです。自分自身の生活と社会をうまく回していけるかどうかは、現場にいる人たち次第なのです」

やらなければいけないことはたくさんあります。十分に人がいるわけではありません。十分な資金があるわけではありません。うまく行った事例はありますが、限られています。

瀬谷さんは言います。「たとえ何か有望そうなことをどうにか作ることができたとしても、すべてを解決できるわけではない状況があります」 活動はいつ終了するのでしょうかと尋ねられて、瀬谷さんは「人々がもはや私たちを必要とはしていないと言ってもらえるときに、私たちの活動は終了するのです」と言います。

様々な文化的な生い立ちを持っている人の窮状に対処する際に、瀬谷さんは難しい立場にいることによく気づきます。しかし、瀬谷さんには、DDRの専門家としての職業を選んだことについて後悔はまったくありません。状況が難しくなってくると、瀬谷さんは自分自身に言い聞かせます。「何かができないことの言い訳を見つけようとしてはダメだ。ひょっとして問題に対する完璧な解決策は見つけられないかもしれないけれど、でも、問題の10%を解決するために出来ることを考え始めることはできる。少なくとも、、それが正しい方向への一歩なのです」 

瀬谷さんはくじけません。瀬谷さんは、たとえひどい状況に直面しても感情に圧倒されることを許さない人だと、同僚は言います。瀬谷さんは、私たちが困っている人たちに同情するだけでは十分ではないと信じています。私たちは困っている人と一緒になって選択の自由を作りださなければいけません。結局、人は(自分で)自分自身を助けなければいけないのです。