能登殿の最期
現代語訳
今はもうこれまでとお思いになったので、太刀となぎなたを海に投げ入れて、兜も脱いでお捨てになられた。鎧の草摺りを引き剥がして捨て、胴の武具だけを身に着けてザンバラ髪になり、大手を広げて立っていらっしゃった。その姿は総じて近寄りがたくみえるものであった。恐ろしいどころではない。能登殿は、大声で
「我ぞと思う者は近寄って、この私と組み合って私を生け捕りにせよ。捕虜として鎌倉に行って頼朝に会って、一言物を言ってやろうと思うぞ。さぁ、寄ってこい。」
とおっしゃったのだが、寄ってくる者は一人もいなかった。 さて、土佐の住人で安芸郷を治めていた安芸大領実康の息子に、安芸太郎実光といって、30人分の力を持った怪力の持ち主がいた。自分に劣らない部下が一人、そして弟の次郎も人並みに優れたがっしりとした者であった。その安芸太郎が能登殿を見て
「いかに猛者と仰られても、我ら3人がとびついたなら、例え身長が10丈の鬼であっても」、どうして取り押さえることができないだろうか。いやできる」
と申し上げて3人で小舟に乗って、能登殿が乗った舟に横付けして「えぃ」
と言って乗り移り、兜のしころを傾けて太刀を抜き、いっせいに討ってかかる。能登殿は少しもお騒ぎにならずに、まず最初にきた安芸太郎の部下を、裾が合うほど引き寄せてから海に「どや」と蹴り入れになった。続いて寄って来た安芸太郎を弓を持つ左腕の脇に挟み、弟の次郎は右腕の脇に挟んで、一回締めてから
「さあ、お前ら。お前らが死出の山を超える旅の供をせよ」
と言って、享年26歳で、海の中へと入っていかれた。