夢よりもはかなき世の中
現代語訳
夢よりも儚い男女の仲(恋人であった故宮の死)をずっと嘆き悩み続けて夜を明かして暮らしているうちに、陰暦四月十日過ぎになってしまって、木の下は(葉が茂って)しだいに暗くなっていく。土塀の上の草が青いのも、人は特に目もとめないけれど、「ああ。」と物思いに耽っていると、近くに生け垣に人の気配がしたので、誰だろうかと思っていると、故宮にかつてお仕えしていた小舎人童ではないか。
(私和泉式部が)しみじみと(故宮のことを)物思いをしているところに(小舎人童が)来たので、
「どうしてずっと来なかったの。(お前のことを)遠ざかってゆく(故宮との)思い出だと思っていたというのに。」
と、(侍女に)言わせると、
「これといった用事もございませんと、馴れ馴れしいのではないかと遠慮し申し上げているうちに、このところは山寺へと参上してまわっていました。全く(経済的に)頼りどころがなくなり退屈に思い申し上げられましたので、(故宮の)御代わりにも(帥の宮のお世話を)し申し上げようと帥の宮のもとへ参上して(お仕えして)いるのでございます。」 と言った。
「それはたいそう良いことではないか。帥の宮はとても上品で、よそよそしくいらっしゃると聞くよ。昔(故宮にお仕えしていたとき)のようには決していくまいよ。」 などと言うと、
「そのようにいらっしゃっても、帥の宮はとても親しみやすくいらっしゃって、 (帥の宮が、私小舎人童に)『(お前は和泉式部の所へ)いつも参上しているのか。』 とお聞きになりまして、 『参上し申し上げています。』 と申し上げましたところ、 『これを持って参上して、(和泉式部が)どのように見なさるのか、といって、侍女(から和泉式部のもとへ)に差し上げさせなさい』 とおっしゃったのです。」
と言って、橘の花を取り出したので、 (和泉式部は)「昔の人の」 という言葉がつい口をつついて出てしまい、 (小舎人童は)「それならば帥の宮のもとへと参上しよう。どのように申しあげるのがよいだろうか。」 と言ったので、言葉で申し上げるようなことも恥ずかしくて、
「どうしたものか。浮気なようにまだ噂されなさっていないのだから、たわいもないことを申し上げよう。」 と思って、
(橘の)薫る匂いに かこつけるよりは ほととぎすの声が聞きたい 同じ声をしていると
と申し上げた。 帥の宮はまだ(屋敷の)端にいらっしゃったのだが、この小舎人童が物陰の方へと何やら合図をしている様子を御覧になって、 「どうしたのか。」 とお聞きになるので、(小舎人童は、和泉式部からの)お手紙を差し出したので、御覧になって、
同じ枝に 鳴きながら育った ほととぎすは 声が変わらないものだと知らないのか
と書きなさって、(和泉式部へ)お送りになると言って
「こういう(兄の元恋人と歌を送り合っているという)ことは決して口外してはならない。浮気っぽいみたいだ。」
と言って中へ入りなさった。