わやくの部屋

PRO-VISION 3 -Lesson 2

Section 1

ささいなことから人生を変えることまで広範囲にわたる選択は、選択があってもなくてもどっちでも(→選ぶときも、選ばないときも両方とも)、私たちの人生の物語の必要不可欠な部分です。選択が大いに気に入るときもあれば、まったく気に入らないときもあります。しかし、選択との関係がどのようなものであっても、選択を無視することはできません。

私たちは選択せよという自らの命令に、毎日、直面しています。行動すべきでしょうか、それとも、尻込みして、傍観すべき(→ただ見ておくだけにすべき)なのでしょうか? 手当たり次第、やって来るものは何でも穏やかに受け入れるべきなのでしょうか、それとも自分で設定した目標を、根気強く追求すべきなのでしょうか? 行った選択によって人生を測定できます。選んできたものの総合計が、私たちが今日いる場所と人物を私たちに持って来ているのです(→今の私たちの立場・地位と人となりを形作っているのです)。

Section 2

1995年、私は日本の京都にいました。ある日、食堂で砂糖の入ったお茶を注文しました。ウエイターは、砂糖入りのお茶を飲む方はいらっしゃいませんと丁寧に説明してくれました。はい、この風習(=そういう習わしになっているの)は知っています、でも私は甘いお茶が好きなんですと答えました。ウエイターは、砂糖入りのお茶を飲む方はいらっしゃいませんと(もう一度同じことを)繰り返しました。日本の方がお茶に砂糖を入れないのは私にはわかっていますが、それでもやっぱり、お茶に砂糖を入れたいんですとウエイターに言いました。ウエイターはこの問題を店長に相談しました。店長さんがやって来て、「すみません、当店では砂糖は置いてないんです」と言いました。私は注文をコーヒーに変えました。同じウエイターがすぐにコーヒーを持って来ました。お皿の上には、ちゃっかりと置いてありました、2袋、砂糖が。

この話は面白いお話ではありますが、選択に関する見方が文化によってどのように異なっているのかに対する(→異なっているのかを説明する)簡潔な例としても役に立ちます。アメリカ人の観点からは当然の選択のように見えることが、日本人の観点からは必ずしもそうではないのです。選択に関する考えと慣行が世界中でどのように異なっているのかを――すなわち、文化における個人主義の程度、あるいは集団主義の程度を――理解するときに、1つの特定の文化の特徴が、特に役に立つということがわかっています。
何かを選ぶときに、何が欲しいのか、何があれば幸せになれるのかを真っ先に考えますか? あるいは、自分と周りの人にとってベストなことは何だろうかと考えますか? 決断を下す際に、主に「私」に的を絞りますか、それとも「私たち」を重視しますか?

米国のような個人主義の進んだ社会で育った人は、選択するときに、「私」に集中します。個人主義者は「自分自身の好み、必要性、権利、他者と定めた契約によって主に動機づけられ」、「他者の目標よりも自分の個人的な目標に優先順位を置く」と、ハリー・トリアンディスは述べています。日本を含む集団主義の社会の構成員は、選択する際に「私たち」を強調します。家族、会社、国家のような、自分が所属している集団の観点から、主に、自分自身を見ます。このタイプの人は「所属集団の規範と、所属集団によって押しつけられている義務によって、主に動機づけられている」と、トリアンディスは言います。誰もがナンバーワンを目指すというよりむしろ、全体としての集団の必要性が満たされるときにだけ、個人は幸せになれると信じられています。

Section 3

個人主義と集団主義はひとまず置いて、一般的に、人々はどのようにして決断を下すのでしょうか? サンフランシスコのスーパーで行った、ジャム研究という研究プロジェクトを通じて、私が発見した面白い行動パターンがあります。

私の研究チームは、有名なジャムメーカーの代理店の人のふりをして、試食用の売店を設置しました。数時間ごとに、ジャムの豊富な品ぞろえを提供するタイプの売店と品ぞろえを薄くして提供するタイプの売店を取り換えました。豊富な品ぞろえの売店には24種類の味があり、6種類のジャムから成る選択の幅の狭い品ぞろえは、豊富な方の24種類の中から選び出しました。試食用売店から離れたところにいる助手は、お客さんたちがお店にやって来る様子を観察し、ジャムを味見するために何人のお客さんが立ち寄るか記録しました。助手は、(売店は同じ時間だけ開いていたにもかかわらず、試食売店に立ち寄ったお客さんのうちの)60%の人が品ぞろえの豊富な方に引きつけられ、40%の人しか品ぞろえの少ない方に引きつけられなかったことを見つけました。
売店では他に2人の助手が、ジャムの味見をした人の行動を観察しました。品ぞろえの規模に関係なく、お客さんたちは平均して2種類のジャムを味わいました。そして、品ぞろえの少ない方を見たお客さんのうちの30%が、ジャムを1ビン買うことを決めました。しかし、品ぞろえの豊富な方を見た後では、わずか3%の人しかジャム(のビン)を買いませんでした。後者(=豊富な品ぞろえ)の方がより多くの注目を集めたにもかかわらず、ジャムのより小さな一揃いを陳列した(→ジャムの品ぞろえを少なくした)ときの方が、6倍以上多くの人が購入しました(訳者注:なぜ6倍以上なのか、簡単な算数ですから計算してみてください。数字が正確なものだと仮定すると3分の20倍=6.667倍になります)。人は適度な数の選択肢を与えられたときに、選択行動をとる可能性が高く、自分たちの決定により強い自信を持つということを、こうした種類の数多くの研究は見つけています。

選択によって浮上する難題は、消費者にとっても、店の経営者側にとっても大きくなってきています。1949年には3,750の異なる品目を扱っていた典型的なスーパーは、今では約45,000品目を誇っています。選択の拡張が選択の爆発的増加になっています(→選択の幅が広がったことで、選ぶことが激増してきているのです)。おびただしい選択の可能性が、友達の誕生日の完璧な贈り物を見つけるのをあれ程ずっと簡単にしてくれるに違いないと思うのですが、結果は、潜在的なプレゼントの列また列に直面して動けなくなってしまっていることに気づきます。私たちは(プレゼントを)探すのに疲れ果ててしまい、愛する人の誕生日を祝う、(本来は)楽しいはずであったはずのものが、つらくていやな雑事になってしまうのです。

Section 4

しかし、どんな悪いことにも良い点はあります。私たち自身を再教育し、訓練すれば、選択が約束してくれるものを利用でき、選択が要求するものに屈する代わりに、選択から恩恵を受けることができると、私は信じています。何かを選ぶことは無条件にいいことなのではないということをしっかり理解して、選択に対する態度を変えなければいけません。毎回、一番いい選択肢を見つけられなかったからといって、自分自身を責めるのをやめる必要があります。

どの選択も大切だと私たちは信じたいと思っています。あるいは、自由と完璧な支配という幻想を、選択は私たちに与えてくれますから、自分に関するすべての選択を自分で行うべきだと、私たちは信じたいと思っています。しかし、私たちみんなが人生の途上で、当然、直面する限界と戦わなければいけませんし、私たちは役に立たない選択を手放す準備ができているべきです。私は盲目を選びませんでした(→私はやみくもな選択を選んだりはしませんでした)(訳者注:京都でのお茶に砂糖を入れると言って譲らなかったエピソードを思い起こしましょう)。盲目的であること(→何も見ようとしないで、ただ盲目的に追従する姿勢)は、食卓から多くの選択肢を取り去りました。しかし、私が選ばなかったこうした実際の状態(=砂糖を入れない普通の緑茶を注文するという、実際は選択しなかった行為)は、私に自分が選ぶことができるものを最大限に利用するよう(=砂糖入りの緑茶が無理だから、次善の策としてコーヒーを注文したこと)に導きました。このことは、大切な選択に集中しなければいけないということを、毎日、私に思い出させてくれます。可能性をきちんと理解することと、希望と、願望(の3つ)と、限界を明敏に評価することのバランスをとること――それが選択の技です。