PROMINENCE 3 -Lesson 5
Question Authority
Section 1
授業の1つで、私はエイミ・タンの小説『ジョイ・ラック・クラブ』を教えています。
それは4人の中国人の母親たちとアメリカで生まれたその娘たちについての話です。
彼女たちの間には大きな文化的ギャップがあるため、彼女たちはしばしばお互いを誤解しています。
彼女たちはアメリカに住んでいますが、母親たちは今だにまさに中国人であり、中国に一度も行ったことがない娘たちは、まさにアメリカ人です。
Section 2
小説中のあるところで、怒っている母親が娘に向かって叫びます。
「娘には2種類しかないのよ。従順な娘と自分の考えに従う娘。一方の種類の娘だけがこの家に住むことができるの。従順な娘の方よ!」
娘の返答は、「それなら、私があなたの娘でなければよかったのに。あなたが私の母でなければいいのに」
両親に従順であることは、中国人の伝統的な価値観として小説の中で繰り返し小説に登場します。
そして娘たちはそのたびに両親に従うことをきっぱりと拒みます。
このアメリカ生まれの娘たちがどれだけ現実的に見えるかということに、私はいつも驚いています。
Section 3
アメリカの子供たちがどうして反抗的になっているのか私にはわかりませんが、「権威を疑う」べきだという考えは文化のいたるところにあるようです。
実際、先日読んでいたタンの別の小説では、登場人物の1人がこの「権威を疑え」という標語のついたTシャツを着ています。
この表現の「権威」は権力のある人や組織なら何でもという意味を表す。
それは親、教師、上司、政府、あるいは単なる一般的規則かもしれません。
権威を「疑う」ことは、これらの人々や規則を信用しないことを意味します。言い換えれば、彼らに挑戦するということです。
Section 4
アメリカの子供たちは、この考え(権威を疑うこと)を学校で教えられています。
例えば、彼らはアメリカの作家で哲学者のヘンリー・デイビッド・ソローについて学びます。
彼の有名なエッセイ『市民的不服従』では、法律が間違っているなら、刑務所へ入ることも、ときには必要だと説明しています。
彼自身は自分の税金でメキシコ戦争を支援することを拒否したために、刑務所で夜を過ごしました。
もう一つの例は、マーク・トウェインの古典小説 『ハックルベリー・フィン』です。
ソローのように、ハックは奴隷であるジムが逃げるのを手助けするときに、法を破ります。
しかし、ハックはソローがしたように権威を疑うためにこれしていません。
彼は、自分が気にかけている人を助けることを望んでいるだけの少年です。
同時に、それが大人が言うことであるので、ハックは彼が奴隷を助けることが間違っていると信じます。
しかし彼の心は彼にそれをするように言いいます。
もちろん読者はハックが正しいと知っています、そしてこのように、小説は権威よりもむしろ自分の心を信じるという教訓を教えています。
Section 5
いったんこのパターンに気づくと、あなたはアメリカ文化のいたるところにそれを見ることができます。
映画、本、テレビ番組、その他何でも。
ですから、アメリカの子供たちは、自分たちが正しいと考え、大人が間違っていると信じていることが多いのは当然のことです。
そしてもちろん、彼らはハックのようにしばしば正しいのです。
Section 6
しかし、時には「権威を疑う」習慣が度を超すこともあります。
私が大学生だったとき、フランス語の授業にいたある男性を思い出します。
彼はとても怒っていたのでフランス語を理解できませんでした。
毎週彼はクラスで手を挙げて先生に挑戦しました。「なぜ彼らはそのようにそれを言うのですか?意味をなしません」と彼は叫びました。
このことを思い出すと、私は日本で教職に就いていることに感謝しています。
英語の発音や綴りは意味をなさないので、私の生徒の誰かが私を怒らせることは想像できません。
Section 7
実際、私は日本に来てから、少なくとも小さな点においては権威を受け入れることにもっと積極的になったでしょう。
私は約1年前、イギリス人の友人と赤信号で待っていたことを覚えています。
そのとき、私たちは他のみんなが通りを渡っているのに気づきました。
私たちは顔を見合わせて笑いました。
私たちの国では、車が来なければ私たちは決して赤信号で待つことはないでしょう。
日本の人々は待つものだということに私たちは慣れていましたが、今では規則に従っているのは私たちだけでした。
権威を疑うことは、どうなったのでしょうか。